田舎坊主の読み聞かせ法話  Por  arte de portada

田舎坊主の読み聞かせ法話

De: 田舎坊主 森田良恒
  • Resumen

  • 田舎坊主の読み聞かせ法話 田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです 和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。 人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
    田舎坊主 森田良恒
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Episodios
  • 田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>
    Jul 11 2024

    この地方では四十九日満中陰の法事の際、四十九個の小餅と鏡餅のような丸い餅一枚でつくった「笠餅(かさもち)」とよばれるものを、弘法大師のご修行姿に似せた人型に切る風習があります。四十九個は人間の骨の数、鏡餅は骨を覆う皮と肉と言い伝えられていて、亡きがら全てを埋葬する土葬習慣のあったところでは、分骨や忌み分けの意味を持っているのです。そして、この笠餅のなかの鏡餅を、杖をもち笠をかぶった弘法大師の修行姿に切り分けます。体の部分を持ち帰って食べると、その箇所の病が治るのだと信じられているのです。足が悪い人は足を、手が悪い人は手をもって帰るということになるのですが、現世利益とはいいながら、まことに信じがたいお話です。

    実を言うと、私は一度もこれを切ったことがありません。というのも、もし足の悪い人ばかりお参りに来たら、どうするのでしょう。お大師さんの足は二本だけなのです。親戚同士で取り合いになったり、自分がほしかったのに誰かさんに持って行かれたなどといやな思いをすることになるとしたら、法事に来て故人の冥福を祈り、しばらくは心穏やかに過ごすことができると思っている人にとっては、それは本末転倒ではないでしょうか。

    そうならないために私はいつも次のようにお話しします。「笠餅はお大師さんの人形には切らず、来られた方の数に適当に切り分けて下さい。そしてそれぞれいただいたものをご自身の悪い部分と思い、たとえば足と思い、手と思って持って帰ってください。お大師さんの修行姿に切れば足は二本しかないので二人しか救われませんが、自分が手にしたものを手と思い足と思えば、みんなが満たされ救われるじゃないですか。これがほんとうの満足というんですよ」と。

    でも最近、私が切らないことを知ってか知らずか、笠餅の切り方が書かれたものをコピーして餅屋さんがサービスでつけてくれるそうです。昔は、「餅屋は餅屋」とその仕上げの立派さを褒めて言ったものですが、こんなサービスをされては、「餅屋も餅屋だ」と言いたくなります。

    私たちはものに名前をつけることによって、整理され便利にもなりますが、反対に名付けることによって不自由にもなっているんです。たとえば、最近ホームセンターなどでも売られている「ぞうきん」が、家で台所の「ふきん」になることはまずありません。「ぞうきん」という名前によって、床を拭いたりする、いわゆる下用の利用に限定されるからです。逆に「ふきん」が下用に使われることはないでしょう。でもホームセンターに陳列されている「ふきん」も「ぞうきん」も、どちらもきれいな布です。だとしたら、ただの白布を買ってくれば「ふきん」にも「ぞうきん」にもなることができるのです。

    言い換えれば、名付けなければ自由で融通が利くということではないでしょうか。すべてに仏の精神が宿っていることを仏教では「悉有仏性(しつうぶっしょう)」といいます。餅の一部に名前をつけて、そのものしか価値がないように思わせるようなことがあってはならないと思うのです。手や足という価値をご自身でつけ、そう観念する方が自由でいいじゃないですか。

    私は、執着することやこだわることから心を解放することが苦を「ほどく」ことであり、「ほどく」から「ほとけ」が生まれたとも教えられました。法事において名前に縛られるようなことがあっては、本来の仏の教えに合わないように思うのです。

    合掌

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  • 田舎坊主の七転八倒<それほど形を整えても>
    Jul 4 2024
    仏事は荘厳(しょうごん)が大切です。荘厳というのはお飾りのことです。仏壇のお祀りの仕方などはよく聞かれることですが、なかでも多いのは、荘厳について置き場所などです。 本来、仏壇にはご本尊が安置されますが、荘厳はこのご本尊のためのものでもあります。真言宗の仏壇は、どちらかといえば質素で控えめなものが多くあまり派手ではありません。 仏壇本体の材質は紫檀や黒檀などが中心で、ケヤキや桜など多種に及びます。最近では圧縮材や合成材なども使われることも多く値段もかなりの差があるようです。仏壇のなかには上部に須弥壇(しゅみだん)というご本尊の置き場所があります。 ここには真言宗のご本尊大日如来を中心にして、向かって右に弘法大師、向かって左に不動明王が置かれます。これはそれぞれのお姿を描いた掛け軸だけの場合もあります。 須弥壇の前には幡(ばん)という布で作った幡(はた)や瓔珞(ようらく)とよばれる飾り金具や電球入りの灯籠などが仏壇の天井からつり下げられます。須弥壇の足下には高杯(こうはい:たかつきのこと)が左右一対置かれ、果物やお菓子などが供えられます。 下の段にいくと、お仏飯やお茶湯を置く台と五具足(ごぐそく:ローソク立て一対、花立て一対、香炉一つ)や三具足(みつぐそく:ローソク立て、花立て、香炉)という荘厳が置かれます。そのほかにも過去帳台や経机、おりんなどがあります。通常は下の段にいくまでの中段あたりに、仏壇の大きさによって違いますが一段から二段を利用して、ご先祖のお位牌が置かれています。ただこれはあくまでも便宜上置かせてもらっているだけで、正式な置き場所というわけではありません。 余談ですが、私がいつもこの話をすると仏壇屋さんから「それだけは言わないでください。売れ行きが悪くなるんです」と、釘を刺されてしまいます。 ちなみにこの田舎寺の檀家さんのなかには、かつては茅葺きの旧家があり、そのお宅のなかには今でも昔ながらの祀り方をしている家があります。現在では屋根は瓦葺きに代わったものの座敷などはそのままで、今も上座敷には一段高い上段の間があります。その上段の間には備え付けの仏壇があり、そこにご本尊を安置しているのです。 ご先祖のお位牌はどこにあるかというとご本尊を正面にして、下の間の右側に小さな位牌置き場の段があります。この旧家には数十体のお位牌があり、このお位牌たちはご本尊に向かうように少し斜めに置かれています。 これはとりもなおさず、私たちが亡くなって仏になるとはいいながら、決して弘法大師やましてや大日如来や不動明王になるわけではないからです。ですから、ご本尊と同じ場所に祀られることはあまりにももったいなく、失礼であるという意味から下の間の別の場所に祀られ、そこからご本尊を拝めるようにつくられたのです。 このように、本来仏壇はご本尊だけをお祀りするものだったのです。もともと祀られる場所がない仏壇のなかの位牌の置き場所について、先祖代々の位牌や新仏の位牌の場所はどこがいいのか、よく聞かれ、正直、困りものです。ですから私は「あまり決まりはないので、適当なところに置かれたらいいですよ。まあ新しいご先祖でしたら正面において丁寧にお祀りになったらどうですか」と、話すことにしています。 しかし、どこで聞いてくるのか、「夫婦や古い位牌や先祖代々などみな場所が決まっていて順番があるって言われた」と言いだし、そのどこかの人に言われたことをきっちり守って置き直している方もいます。 たしかに仏事に関して「わるい」と言われれば、そのことはしないようにするのはよくわかります。しかし「どうわるいのか」の理由がないのです。あるとすれば「ばちが当たる」ということでしょうか。 でもご自分のご先祖がその置き場所のことで、果たして家を守っている子孫にばちを当てるでしょうか。それよりも、ご命日には心込めて新しい花や故人の好物だったものを供え、しずかに般若心経をお唱えし、感謝の気持ちで手を合わせることのほうが大切だと思うのですが・・・。 ...
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  • 田舎坊主の七転八倒<坊主より詳しい?>
    Jun 27 2024
    仏事に関しては各宗派に違いがあります。 さらには同じ宗派でも地域によっても違いがあります。 これは仏事がそれぞれの地域の特色や歴代の住職の考え方などが大きく影響し、文化の一部として慣習化したものが少なくないからでしょう。 たとえば同じ宗派であっても、かつては土葬と火葬が共存していたため、それぞれの葬送の仕方を受け入れないところがありました。 土葬埋葬は亡きがらを捨てるようで、しかもその上に重い土をかけるのがかわいそうだといい、一方は火葬は熱そうだからいやだといいます。 また、葬式を済ませて中陰の間は仏壇を閉じるところと、開けたままにしておくところがあります。 当田舎寺では仏壇を閉めないようにお話ししています。 しかし親類縁者から閉めるようにいわれることが多いのか、この件についてはよく聞かれることでもあります。 仏壇は本来ご本尊を安置するものです。 ですからご本尊の安置されていない仏壇はあくまでもご先祖の位牌置き場ということになります。 もともと仏壇を家に置くようになったのは、ご先祖供養のためわざわざお寺へ行かなくてもいいように、いわばミニお寺を家の中に置く感覚で普及してきたと考えられます。 そのなかに方便としてご先祖の位牌を同居させているのが現在の仏壇のありようなのです。 その証拠に仏壇をよく見ると実際には位牌置き場というところはありません。 本尊を安置している須弥壇という高台に至る階段模様の段々上に位牌を置いているのが現状なのです。 あくまでも仏壇の主人はご本尊なのです。 特別に壇をしつらえお祀りされるのは、亡くなって間もないご先祖の魂が、名残なく迷うことなく黄泉の国へ旅立ってほしいと願い、大切なご本尊に手を合わせ、護られ、導かれたいと思うからであります。 にもかかわらず、ご本尊のいます仏壇が閉じられていたのでは、祈念が通じないのではないかと思うのです。 ですから私は中陰の間も仏壇を開けておくようにお話しします。 私の暮らす地域は二十数年前までは土葬が中心でした。 その後、多くの反対意見も出るなか、近くに火葬場もできたので、それからはすべて火葬に替わりました。 火葬の始まりは、2500年前、お釈迦さまはインド北部クシナガラで生涯を終え荼毘に付されたところからです。 火葬にされたお骨は世界七カ国に分骨され、それぞれガラス製の骨壺に納められ、それをお祀りする場所として仏舎利塔が建てられました。 これがストゥーパとよばれ、漢訳され現在の「卒塔婆」になったのです。 お骨になったということは、すべてが自然に還ったことであります。 すべてが自然に還った燃え残りとしてのお骨でさえ、あまりにも偉大なお釈迦さまのものであればこそ、貴重なガラスの器に入れ、これを礼拝する対象としたのです。 弘法大師ご入定のあと高野山を真言宗の根本霊場として完成させた真然大徳の御廟が修復された平成二年、、瑠璃色に焼かれた骨壺がそのまま掘り出されました。 このことは全国紙にもカラーで報道されました。 その骨壺はそのまま真然大徳の御遠忌で落慶された御廟に再び納められました。 このようにこういった方々の骨壺はとても大切に扱われるものであることは言うまでもありません。 しかし庶民の埋葬意識は少し違っていて、火葬してからもお骨を土に還すという観念で納骨される方がたくさんおられます。 埋葬文化は「土に還る」を第一義とされていますので、骨壺に入ったままでは土に還れず成仏できないと思うのでしょう。そういう方々は骨壺を割りお骨を直接土にまく必要があると考えているのです。 あるお宅の納骨供養の際、その親戚の長老らしき方が采配しだしました。 「おい、骨壺からお骨を出して、その穴へ撒いて・・・」 「壺を細かく割って、深いところに埋めて・・・」  私が口を挟むまもなく納骨は進んでいきました。 「そのまえに、写経した用紙はあるか?」 「それはお骨の下に敷くんや」 「よっしゃあ、それでええわ」 写経用紙の取り扱いまで指導したところで、 「次は土をかけるんや、一鍬ずつでええで」 と、参列者を順番...
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