田舎坊主の読み聞かせ法話

By: 田舎坊主 森田良恒
  • Summary

  • 田舎坊主の読み聞かせ法話 田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです 和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。 人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
    田舎坊主 森田良恒
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Episodes
  • 田舎坊主の七転八倒<山行きが帰ってこない>
    Aug 29 2024

    私のいる村は旧高野街道の高野七口とよばれるうちの一つで、大門にいたる紀ノ川の入り口に当たり、「大門四里」の石標も残っています。

    当地は重要な宿場町で、大和街道と高野街道の分岐点にあたり、昭和36年頃まで、川の近くにある茶屋町とよばれるところでは市も開かれ、高野参りの巡礼者たちは、旅館や茶店、薬屋で必要な品を買い求め、大門へと向かったのです。この茶屋町を過ぎれば峠までは急坂が続きます。この坂道に沿うように民家はもちろんのこと、お墓もそれぞれの家が自分の畑の近くに建ててます。そんな場所にあるお墓でも、昔は土葬でした。

    急坂にあるお墓といえば、こんなことがありました。


    お葬式の知らせが入ったお家は地区の一番下の谷沿いにあり、埋葬するお墓は高野山を望める峠とおなじくらいの高さのところにあります。その家とお墓までは標高差でいえば300メートルぐらいはあるでしょうか。そこまで町内会の人が棺をかついでのぼるのです。下に落としてしまわないように棺に2本のロープをかけ上からひっぱりながら男4人ぐらいでかつぎます。途中で何度も休憩し、男たちは場所を入れ替わりながら峠近くの埋葬墓地までかつぎ上げるのです。

    何も持たず葬列につく参列者でさえ、何度も休みつつ息も絶え絶えのぼるくらいですから、棺をかつぐ男たちのしんどさはいうまでもありません。峠のお墓についたころにはだれもが精も根も尽き果てているようすでへたり込んでいました。


    あの時、私の父親もかなりの年齢になっていたので、導師である父親のおしりを私が押しながら山(お墓)へ行ったことは忘れることができない思い出であります。


    山側のあるお家でお葬式が行われたときのことです。

    出棺の時間になっても埋葬のためにお墓に穴を掘る「山行き」役が、なかなか帰ってこないのです。普通なら出棺までに掘り終えるのですが、まだ掘れないというのです。当家に指示された墓の場所から岩盤が出たからです。少なくとも棺より一回り大きく、深さは百六十センチも掘る必要があるので、一メートル足らず掘り進んだところで大きな岩盤が現れたと言うのです。

    「山行き」は2人だけなので、人力だけで岩盤を割るのはとても無理だということで、発破をしかけることになりました。お墓に発破をしかけて掘るというのは、この土地でもはじめてのことでした。数回の発破で岩盤はなんとか砕くことができたのですが、今度は砕かれた石を出すのが大変です。2人で同時に穴に入ることができないため一人ずつ交代で石を掘りあげなければなりませんでした。また、穴は掘れても、棺を納めたあと掘りあげた砕石を埋め戻すわけにはいきません。土葬ですから当然埋葬は土でなければなりません。そのため今度は墓地内の違う場所から土を持ってこなければならなくなりました。しかも、いま掘っている場所は坂になっているものですから、あまり効率よく作業が進みません。二人の山行きさんにとってみれば、出棺が2時からなのにすでに3時間を経過し、夕暮れ近くになっており、まさに時間との戦いでした。そして結局、埋葬できたのが5時半を過ぎていたのです。

    このときほどこの田舎にも早く火葬の時代が来てくれないものかと、切実に思ったことはありませんでした。

    合掌

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    8 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<坊主も山行きするんです>
    Aug 22 2024

    私が葬式で導師をつとめるようになってまもなくのころのおはなしです。

    現在のようなセレモシーホールなどで通夜、葬式をつとめ、出棺は自動車で火葬場へ行くというものに比べれば、昔はかなり丁寧な葬送の儀式であったように思います。

    私のいた村では平成5年ころまで、葬式はすべて自宅で行われていました。そして「野辺の送り」でそれぞれ役割の仏具を持ち、葬列を組んで墓地までいくのです。

    その前には、「山行き」とよばれる墓の穴を掘る役の人が町内会から当番で選ばれ、彼らが朝早くから掘った幅60センチ、長さ200センチ、深さ160センチの埋葬地で土葬前の供養をつとめるというのが普通のお葬式の形でした。

    かつての野辺の送りには、命の限りや生き方などを見つめさせる深い意味がありました。

    出棺する少し前から一番鐘、二番鐘、三番鐘と大きな鉦鼓が当家の玄関先で鳴らされます。遠くにいる人たちにも、もうすぐ出棺が近いことを知らせるのです。そのあと最後の別れを済ませたあと生前使用していた茶碗が割られ、もうここでは食事をする場所がないことを死者に知らせます。

    そして最後に棺を庭に出して右回りに三回まわり、この家にはもう戻れないことを死者に悟らせるのです。葬列には先ほどの鉦鼓のほかに大きな銅鑼も鳴らし、故人の葬送を地区の人たち全員に知らせます。高く掲げられた四本幡には「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」と書かれていて、「すべての存在は無常で移り変わるものです。そのことがわかれば苦を超えた平安が得られます」と教えています。

    この野辺の送りは故人のためだけのセレモニーではなかったのです。

    いま元気に畑で農作業をしている人々にも多くのメッセージを送っているのです。

    今日亡くなったのはあの人でも、あすはあなたが棺に入るかもしれないのですよ、と無常を悟らせ、いま元気に働けることを感謝しながら一日一日を大事に生きることを気づかせてくれるのです。

     けんかしたままの人はいませんか? お礼を言えていない人はいませんか? 受けたご恩にお返しはしましたか? 今できることは今しておきましょう、と。

    私たちは急に命を落とすという現実を毎日のようにニュースなどで接しているにもかかわらず、なかなか自分のこととは思えないものです。そんなとき、この野辺の送りが教えてくれているのは、命の限りであり生き方ではないでしょうか。

    ちなみに私も「山行き」の役をつとめたことがあります。

    町内会の順番とあって当然のつきあいとして役をいただいたのですが、坊主が墓の穴掘りをするという絵面はあまり見せられたものではありません。山行き当番は二人で、朝早くからその当家の墓地へ行き、喪主から埋葬場所を指示してもらったあと穴を掘ります。棺より一回り大きい穴を掘るため相当時間がかかりますが、もちろん葬式が始まるまでには掘り終わらなければなりません。休憩所では山行きさん用に風呂が沸かされ、穴掘りが終わると、入浴というか沐浴をすることができ、あとは埋葬まで休むことができます。

    しかし、私は引導を渡す導師でもあります。風呂に入るやいなや法衣に着替え葬式をしなければなりません。野辺の送りを済ませ、土葬前の供養が終わると今度はすぐさま葬列の方々の前で法衣を脱ぎ捨て作業着に着替えます。下駄を放り投げ長靴に履き替え、数珠をスコップに持ち替えて棺を埋めなければならないわけです。このようすを見ていた参列者のひとりの「坊さんに山行きさせたらあかんでえ」という言葉を聞いたのは、私ひとりではなかったようです。

    その後、田舎坊主に山行きの役が回ってくることはありませんでした。

    いまは野辺の送りも土葬という風習もなくなってしまいました。唯一、残っているのは、出棺時、かつての三番鐘の代わりとして鳴らされる霊柩車のクラクションと、半紙に包まれたお茶碗を割ることぐらいではないでしょうか。

    合掌

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    10 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<細工をしないで>
    Aug 15 2024
    坊主はお布施で生活しています。 正確にいうと、私の場合、お布施という資金を宗教法人不動寺という会社が布施収入としてプールし、その会社から人件費として坊主に支払われます。もちろん収入が人件費を上回っていれば問題はないのですが、ときどき毎月の人件費支払額に満たない場合もあります。法人の貯えが相当あれば当然それでまかなわれることになるのですが、なかなかそううまくはいかないのが現実なのです。それでも毎月、源泉徴収をし、12月末には年末調整をし、税務署や役所に報告しなければなりません。 つまり実際には決めた月給の半分もいただいてない、というかお布施が少なくて払えないときでも、決めた額で記帳し申告するのです。 また、本来ならボーナスもいただきたいところですが、いまだかつていただいたことがありません。これはまさに零細企業そのものです。 檀家さんでも私たち坊主が月給取りで、源泉徴収事務をし、年末調整のうえ税務署などに申告していることを知っている人はほとんどいません。「坊主丸もうけ」と思っているのです。 本来、古来インドや上座部仏教の地域では僧侶は生産活動をしないため、庶民や信者などから直接食べ物やお金を布施としていただいて命の糧としていたのです。 布施をする人にとってみれば、人々の幸せを祈り、豊作を祈願し、そのために日々修行してくれる僧侶に、食べ物や金銭を施すことはなによりの功徳であり、供養であると考えていたのでしょう。 庶民は土に種をまき、作物を収穫し、その作物やそれを売ったお金を僧侶に布施するのです。僧侶は布施をもとに生命をたもち、修行して得られた智恵や祈りの種を庶民の心にまくのです。布施という行為は、お互いに提供しあうのであって、決して一方的に与えたり与えられたりするものではないのです。 布施という言葉はサンスクリット語の「ダーナdâna」が語源といわれています。「ダーナ」とは、「提供する」とか「喜んで捨てる」という意味があります。「ダーナ」は中国から日本に伝わるとき「檀那」と漢訳されました。ですから、布施する家は「檀家」となり、布施される寺が「檀那寺」となるのです。「うちの旦那さん」の旦那もおなじく「檀那」で、家族にお金やものを提供する人という意味があります。 「ダーナ」が英語圏に伝わって「ドナーdonor」となります。移植医療では臓器などを提供する人のことを「ドナー」とよぶのはよく知られたことです。もちろん「ダーナ」が語源なのですから、提供するかぎり喜んで捨てるこころが大切なのはいうまでもありません。 ちなみに2002年4月、衆議院議員の河野太郎氏がドナーとなり元衆議院議員の父河野洋平氏が「生体肝移植手術」を受けたことを覚えている方も多いことと思いますが、この手術で息子さんの肝臓の一部を提供された河野洋平氏はいまも元気で活躍されています。この「生体肝移植手術」という方法が日本ではじめて実施されたとき私ははじめてドナーという言葉を知りました。 それは1989年11月に島根医大で日本初、世界で四例目という「生体肝移植手術」が行われたときのことです。 このときの患者は、胆道閉鎖症という病気で余命いくばくもなく肝臓移植しか救われるすべのないYちゃんという小さな子どもで、ドナーはこの子のお父さんでした。この手術に踏み切った当時の執刀医永末教授は、「肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した」と、述懐しています。 「ダーナ」の精神で提供され実施されたこの手術は、現在では5千例を超え、一般的な治療となって多くの患者の命を救っているのです。まさに喜んで捨てる行為が移植医療を支えていると言っても過言ではないのです。 この田舎寺には毎年8月9日、お盆の前に行われるお施餓鬼という行事があります。 そのときのお布施について少しご紹介します。 ご自分のご先祖だけではなく、餓鬼道という地獄に落ちている縁故なき精霊にも水を手向け供養するのがお施餓鬼供養...
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    13 mins

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