Episodios

  • ST-A 安曇族の足跡を探るの16回目は明科です。
    Jul 28 2024
    安曇族の安曇野での拠点となった場所は明科であったといわれます。 そして、明科には大きな伽藍をもった寺があったといわれます。 それが明科廃寺といわれ、現在も発掘調査が続けられています。 調査に携わってこられた安曇野市文化財保護審議会委員の大澤慶哲さんの話では瓦はたくさん出土しているが、伽藍があったかどうかは未だ分からないということ。 そして、安曇氏とお寺の関係もわかっていません。 というのは、調査地点は住宅地であるため調査の範囲が限られているからです。 安曇氏のお寺であったのか、さらに安曇氏の居館があったのか、今後の調査結果が待たれます。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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  • ST-A 安曇族の足跡を探るの15回目は明科について
    Jul 14 2024
    安曇族は仏像をもって安曇野へ入った、そして有明山が見える場所、明科(あかしな)に拠点と作った、というのがちひろ美術館の松本猛さんの説です。 松本さんは、その明科に安曇族は寺院も作ったのではないか、それが明科廃寺とされる場所では、とみています。 その証拠に塔の原という場所があり、かつて、塔が建っていた可能性があるとみています。 さらに、最近の調査でも多量の瓦が出土いるのです。 しかし、長年調査に当たっている安曇野市の文化財保護審議会委員の大澤慶哲さんの話では、どのような建物が建っていたのか、まだまだ発掘してみないとわからないと いうことでした。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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  • ST-A 安曇族の足跡を探るの14回目も仏像について
    Jul 7 2024
    安曇野の松川村にある観松院の仏像は、安曇族が持ち込んだのでは、とみていらっしゃるちひろ美術館の松本猛さん。 話はどうやら、527年の磐井の乱と関係ありそうです。 松本さんの説では、磐井の乱の際、磐井がヤマト王権側に敗れたため磐井側だった安曇族は日本海を遡って逃亡。 新潟県糸魚川あたりから陸路安曇野へ入ったのではないか、その際、仏像ももって安曇野へ入った、とみています。 そして、安曇野の有明山が見える明科辺りを拠点としたのではないかとみています。 有明山は対馬にもあり、安曇族と関係の深い山だから、ということです。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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  • ST-A 安曇族の足跡を探るの13回目は仏像について
    Jun 30 2024
    安曇野の松川村のお寺、観松院には銅像菩薩半跏像という仏像があります。 この仏像は6世紀の後半から7世紀の初め頃、百済で作られ日本に持ち込まれたとみられるものです。 持ち込んだのは志賀の島を拠点に活躍していた安曇族だ、という説を展開しているのは安曇野の「ちひろ美術館」常任顧問の松本猛さん。 松本さんは、磐井の乱がきっかけで安曇族が九州から日本海沿いに北上し、新潟県糸魚川あたりから仏像をもって安曇野へ入ったのではないか、と見ていらっしゃるのです。 ※左の仏像が観松院のもの。右は対馬の仏像。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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  • ST-A 安曇族の足跡を探るの12回目も信濃大町です。
    Jun 23 2024
    信濃大町の塩の道博物館「ちょうじや」の隣には大町の祭りを紹介する流鏑馬会館があります。 これは7月の若一王子神社の流鏑馬を紹介している場所です。 流鏑馬の射手士は毎年10町から10人の6才から9才までの男の子が出場します。 衣装は下は袴、上は陣羽織です。 出場する射手士の子供は一日神様として扱われるそうで、人が見てる前では地面に足をつけてはいけないことになっており、馬の乗り降りも大人に抱っこされてするそうです。 頭には三階傘というものをかぶり、その上ににわとりの人形をつけています。 これが神様であることの象徴だとか。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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  • ST-A 安曇族の足跡を探るの11回目も信濃大町です。
    Jun 16 2024
    信濃大町にある塩の道博物館~塩の道・ちょうじやの2回目もちょうじやから。 新潟県糸魚川から松本への塩の道、糸魚川から松本まで120キロありますが、大町までは80キロです。 その80キロの道のりを歩荷(ぼっか)といわれる運び人は、60キロの塩をカマスに入れて背中に背負い大町まで運んだのでした。 糸魚川から運んだものは塩、能登ブリ、エゴ、といったものでした。 帰りに糸魚川に運んだものは麻、タバコ、麦、そばといったものだったそうです。 塩は瀬戸内海の塩がはるばる大町まで運ばれていた、といいますから驚きです。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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  • ST-A 安曇族の足跡を探るの10回目は信濃大町です。
    Jun 9 2024
    信濃大町には、かつて塩問屋であった平林家が「塩の道ちょうじや」という塩の道の博物館の形をとって残っています。 1階には荷車をそのまま店の奥の倉庫へ横付けできるよう、今もレールの跡が残っています。 又、1階の土間にはには一間四方の囲炉裏が切ってあり、塩を運んできた歩荷(ぼっか)という人が草鞋姿のまま囲炉裏にに入れるような構造になっています。 囲炉裏の上は高い吹き抜けになっており、自在鉤が上からぶら下がっています。 高い天井部分には下から操作して窓を開けられるようになっており、煙の出口になっていました。 この博物館の黒川恵理子館長の案内で展示物をじっくり1階部分から見ていきます。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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  • ST-A 安曇族の足跡を探るの9回目も塩の道です。
    Jun 2 2024
    塩の道で栄えた信濃大町にきました。この町は平安時代末期から鎌倉時代まで仁科氏という豪族が治めた地です。 この町の南東部はこの時代、仁科御厨(みくりや)という伊勢神宮の荘園になったそうです。 仁科氏はその中心部に仁科神明宮を創建し、御厨を管理しこの地を収めていたのだそうです。 この仁科神明宮の本殿と中門は国宝になっており、広い林の中にある建物は荘厳な雰囲気を漂わせています。 この仁科氏の居館は塩の道ぞいにありました。まわりから少し高い土地の遠くまで見通せる場所にありました。 Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices
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