Episodios

  • 開眼へと導く主イエス(1)~記憶の力~(マルコの福音書8章14節~21節)
    Jul 21 2024

    序)マルコの福音書の目的~神の国が近づく~

    ・「イエス様がわかる」+「弟子の道を生きる」=「神の国が近づく」

    1)勘違いでは済まされない状態~目がふさがれている弟子~

    ・パリサイ人との論争の後、舟でベツサイダ(ホームグラウンド)に戻る際、パンを受け取り損ねた弟子達に「パン種」の話がされ、論争になる。

    ・問題は「パン」ではなく、弟子たちの「目」が啓かれていないこと。目が啓かれていなければ、「パン種」の混入に対応できない。

    ・ただの勘違いなら、そう訂正すればよいが、パン 1 つに騒ぐ弟子達は、パンを増やせるイエス様が共にいることをすっかり忘れている=盲目状態。

    ・気づき(悟り)を促すために質問を重ねるが、弟子たちは目の前のパンの問題と奇跡をつなげて考えることができなかった。

    2)私たちの目は見えているのか~「まだ」にある希望~

    ・「パン」とは経済資源(お金の象徴)である。これを増やすことのできるイエス様が、私たちの信じるイエス様で「変わることがない」と告白していても、現実の教会経済の話につながらないことがよくある。

    ・もちろん、イエス様はパンを増やすマシーンではないから、都合の良いようにイエス様を持ち出して経済的暴挙に出るのが信仰ではない。しかし、イエス様が共にいること、パンを増やせることを可能性に入れることさえしないのは、盲目状態である。

    ・「まだ悟らないのですか」はパリサイ人に対する「深いため息」とは違い、忍耐をもって待っておられる主の姿である。

    3)思考が凝り固まる理由~「覚えていないのですか」~

    ・弟子たちの「忘れ物」は大したことはないはずだが、過去の苦い思い出、咎められた恥の記憶が心を飲み込んでしまう。

    ・「1つのパンはいつまでも1つ」というイエス様と一緒にいなかった時の学習経験(常識)が頑なさを仕上げてしまう。

    ・記憶が問題ならば、記憶と常識を編み直すしかない。思い出すべき奇跡のエピソードを思い起こすことが、目を啓く鍵となる。

    結)「わたしを覚えて」~礼拝で御言葉を聴く理由~

    ・「イエス様を覚える」というのは、私たちの感情や思考を呼び覚ます、心の中の物語(記憶)を、イエス様の物語、福音の物語に浸して、造りかえ、それを今日と言う現実の中で維持することである。

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  • 与える仕事(使徒の働き20章31節~35節)
    Jul 14 2024

    序) ・今日も皆さんに 100%有益なお話です。ご期待ください。

    1)クリスチャンの安息と働き ・クリスチャンになるということは、本当の安息を得ることです。そして働きが変えられるということです。神の働きも人の働きも、伝道や牧会のような働きも、生活のための仕事も、教会での奉仕も、社会でのボランティアも、すべてこの世界のための大切な働きです。私たちが救われたということは、造られた世界を管理する働きがイエス・キリストにあって回復してゆくことなのです。

    2)キリストが教えた働くことの意味 ・働くということは、聖書の教えによれば、与えること、あるいは与え合うことです。しかし、神に背いた人と世界では、働くことは「むさぼり」(奪うこと)になってしまいました。「受けるよりも与えるほうが幸い」これは、クリスチャンだけでなく、すべての人にとって役に立つ生活の処方箋です。しかし、私たちは、三位一体の神ご自身から「与え る」ということを学びます。

    3)三位一体の神は与え給う神 ・父なる神は独り子を与え、子なるイエスはいのちを与え、聖霊は救いと祝福を与えられます。三位一体の神は与え給う神です。主イエスの「受けるよりも与えるほうが幸い」という神の国の生き方を、すべての人が学ばなければなりません。「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのはそのことです。

    結) ・与えるというのはお金や物に限りません。向上心をもって大いに受けて、大いに与え合う、たんぽぽ教会が与える教会でありますように。

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  • ぐちゃぐちゃのままでも(詩篇39篇1節~13節)
    Jul 7 2024

    序)人生が整わない時に

    ・詩篇 39 篇は詩人のまとまらない思いをそのまま神の前に持ち出すことが許されていることを伝える。 ・悲しみに暮れ、暗い顔をし、肉体的に弱っていた詩人の 3つのアクション。

    1)がんばってみた詩人~右に行っても、左に行っても限界~ ・言葉の罪を犯さないために、とりわけ信頼関係の乏しい敵対者の前で失敗しないために、詩人はじっと黙って頑張ることを選ぶ。 ・黙りつづけるということは、目の前の状況を沈黙のうちに肯定してしまうことになり、それが自分の心と離れていけばいくほど、痛みが加わる。 ・黙らなければ「罪」、黙っていれば「痛み」という状況で限界が来ていた。

    2)さとってみた詩人~それでもはみ出す願い~ ・詩人は急に人生のはかなさに思いを向ける。神様に自分の寿命を尋ねるが、この問いに答えはない。 ・ただ詩人は情報が欲しいのではなく、自分の「終わり」を聞かなくてはやっていけない思いにいる。 ・寿命がわからないとしても、永遠の神様の前では無いにも等しいと「悟り」、痛みに耐えられない自分も含め「空しい(ヘベル)」と感じる。 ・「悟り」の世界に身を置けば、目の前の出来事を達観(スルー)できる? ・「悟り」からはみ出す「願い」…「今」神様の力に触れたい!

    3)あらがってみた詩人~小さな子どもの泣き叫びのように~ ・詩人は、自分の不義を責める神様の厳しさで、生きる意欲が失われていくと感じ、神様に「御手」の向きを変えるように訴えている。 →果たして、聖書の神は、この詩人の言うような存在なのか。十字架にかかられたイエス様のご人格と一致するのか。 ・自分の罪がすべての苦しみの原因ではないし、個別の事象すべてが神様から直接的に引き起こされるわけではない

    結)すべてを受け止め、包み込む神 ・「旅人」「寄留の者」とは、相続権を持たない、戸籍のない難民のような状態。霊的資質の不足を意味する。しかし、神は「寄留者」に優しい。 ・しかし、詩人は最後に「見つめないで」と屈折する。 ・「ぐちゃぐちゃのまま」生き続けてよいわけではない。「ぐちゃぐちゃのまま」の自分を認め、神様の前に出る、祈ることである。

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  • わたしのもとに来て飲みなさい(ヨハネの福音書7章37節~39節)
    Jun 30 2024

    序)霊の渇きが満たされるなら、他者をも潤す

    ・のどが乾いたら水を飲む。飲まないと脱水症状になる。 ・霊の渇きがあるから私たちは教会に出席し、礼拝する。イエスさまから飲ませていただきたいから。 ・自分の渇きが満たされたら、今度は他の人を潤すようになる。霊の糧は飲み過ぎることなし。

    1)主イエスのもとに来て飲め(37節) ・ユダヤ教教師(ラビ)は通常座って教えた。主イエスの所作は緊張感を与えた。 ・仮庵の祭りは a) 秋の収穫感謝祭◆レビ 23:33-43。 b) 出エジプトと荒野の幕屋生活の守りへの感謝 c) 雨乞いの祭り◆ゼカリヤ 14:8,16-17。 ・別訳「祭りが盛大に祝われる最終日」。七日間毎日、大祭司は木の枝を右手に果実の枝を左手に持った巡礼者らを伴い、ギホンの泉で水を汲み、イザヤ12:3 を合唱しつつ神殿へ。ハレルヤ詩篇(113-118)を歌い、ホサナの歌118:25 を歌いつつ祭壇を周回し、祭壇の両側に水を注いで雨と実りを求めた。荒野で主が岩から水を出した(出エジ 17:6;民 20:11;Ⅰコリ 10:4)故事を象徴。仮庵の祭りは収穫を終えて一年を締め括る最大の祭り。◆出エジ23:16。 ・最終日には水を注ぐ儀式がないので、その代わりに「わたしのところでいのちの水を飲みなさい」とのメッセージはよく当てはまる。 ・(霊的に)渇くとは、罪を自覚して赦しを求め、良心の平安を熱望すること。◆使徒 2:37;16:30;マタイ 5:6。(わたしのもとに来て)飲むとは、キリストに来てキリストを信頼し、自分を預けて神との平和を回復すること。 ・渇きを覚えていない人には飲ませられないから渇きが生まれるのを待つ。 今は渇きを感じなくても必ず霊の渇きを覚える時が来る。

    2)生ける水の川(38 節) ・信じるとは主イエスのもとに来て飲む者。◆イザヤ 55:1;詩78:15-16;Ⅰコリント 10:1-4。キリストこそ、豊かに渇きをとどめる泉。イスラエルを荒野でいやした、あの岩。 ・主イエスは生ける水である聖霊を、信じる者に与えるだけではない。心の奥底(直訳「腹」、感情の座)から生ける水の川が流れ出し、他者を祝福するように、泉を授ける。◆ヨハネ 4:14。サマリアの女へのことばと同じ。 ・旧約の近似箇所◆箴言 4:23;5:15;18:4;イザヤ 44:3;58:11。メシア時代、救われた者たちが周囲の人々を潤す水源に。これはアブラハム契約の成就◆創 12:3。全世界の祝福の基に。 ・生ける水の川が流れ出るのは義務や努力ではなく、事実認定であり必然。地の塩、世の光。

    3)ペンテコステに聖霊は降った(39 節) ・生ける水とは、主イエスを信じる者すべてがペンテコステ後に与えられる聖霊。 ・十字架⇒復活⇒昇天⇒神の右に着座し栄光⇒聖霊降臨。無償で生ける水を与えるため、主イエスは十字架の贖いの犠牲を払った。 ・教会、礼拝、礼典それ自体は主イエスのもとに来て飲むことにならず。ポイントは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」。信じて飲めば聖霊が与えられ、他者への祝福の水源に。

    結) ・霊の脱水症状にならぬよう、渇きを自覚しよう。そして主イエスに満たしていただこう。 ・イエスさまこそ、アブラハムに与えられた契約の結論。世界中すべての民族が「心の奥底から生ける水の川を流れださせる私」によって祝福される。私が世界の祝福の基となる。 ・だから、自分だけでなく他の人々の祝福のため、もっと渇いて、イエスさまのもとに行こう。そして、生ける水を溢れ出させ、人々を幸せにしよう。

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  • 「ちょっとだけ」でも災い~キリスト教会の失態に学ぶ~(マルコの福音書8章15節)
    Jun 23 2024

    序)人生を狂わせる力

    ・私たちはみな、どうやって生きて行ったらよいか悩む者である。

    ・私たちが善い人生を生きることを願っている神がおられ、聖書によって助けようとしておられる。(Ⅱテモテ 3 章 15 節)

    1)「パン種」の比喩

    ・「パン種」とは今の言い方で言えば「イースト」のこと。

    ・「パン」が人生・いのちに相当し、パン種はこれを左右する力をもつ。

    ・わずか(=「ちょっとだけ」)の「パン種」が全体に影響を与える。

    2)気を付けるべき「パン種」~独善~

    ・自分が正しいと思う感覚はだれもがもっているが「自分だけ」が正しいとなると「独善」に陥る。

    ・「善」は人生を良いものに、世界を良いものにするはずだが「独」がつくと逆の働きをする。

    ・日常的には「余計なお世話」が独善の現れであり、国中が独善に絡めとられるなら「正義のための戦争」が起こる。

    ・キリスト教会は歴史的に、この「パン種」によって自らを膨らませてしまった。今もそうかもしれない。「正統主義」から暴力に発展する。

    ・独善はよくないが、善そのものをあきらめるのも間違い。善を求めて対話しながら生きることが大切。

    3)気を付けるべき「パン種」~抑圧~

    ・「ヘロデ」とは王の名前に由来し、権力に物を言わせて、他者を支配するあり方が、2 つ目の「パン種」である。

    ・「権力」そのものは、様々な「違い」から来る力の差において生じる。この力の差を使って、強い者が弱い者の自由を奪うなら「ヘロデのパン種」がうごめく。ハラスメントや虐待の「種」になる。

    ・キリスト教会は歴史的に、この「パン種」によって自らを膨らませた。ローマ帝国の公認宗教になったところから、教会は絶大な富と権力をもつ組織になった。この「パン種」は膨らませた後に腐敗させる。

    結)気づいて、取り除くために

    ・「パン種」を呼び寄せてしまう私たちの心の問題を「罪」と呼ぶ。

    ・イエスの生き方こそ、罪のパン種から逃れて生きる道である。

    ・腐敗しない「パン種」として聖霊が与えられる。

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  • イエスの「舟」に乗る者に(マルコの福音書8章11節~13節)
    Jun 16 2024

    序)イエスの「深いため息」は今日も… ・「聖書で読み解くこれからの世界情勢」的なコンテンツへの異常な人気 ・「聖書のある記述が正しいことが科学的に証明された!」的な話題 →これらは神を信頼することとは無関係であり「天からのしるし」を求めることの現代版である。 ・「聖書で読み解くこれからの世界情勢」的なコンテンツはしばしば修正される。修正されるもので「当たるから正しい」と言うのは詐欺。 ・「聖書のある記述が正しくないことが科学的に証明された!」場合に、科学を否定する。これは究極のご都合主義である。

    1)私たちに潜む「天からのしるし」願望 ・「御心」という言葉で、自分の人生の成功保証をしたいという心は多くの人に潜んでいる。これはキリスト信仰の「占い化」である。 ・「天からのしるし」の本質は「絶対大丈夫という確信」である。しかし、これは絶対に与えられない。 →もし「絶対大丈夫という確信」をもってしまったら、自分の確信した「考え」が絶対になり、他者の声は入って来なくなり、対話することができなくなる。「不安」は消えるが「祈り」も消える。 →この「絶対」を守るために、攻撃的になる場合もある。 ・パリサイ人の言動が福音書に描かれるのは、私たちが彼らのようになる誘惑に陥る可能性が高いからである。

    2)「天からのしるし」としてではなく聖書を読む ・聖書には、これからの世界情勢を読み解く内容が含まれているのは事実だが、その目的は何が起ころうとも私たちが希望をもつためである。 ・聖書と科学は、最終的に一致するが「今の時代」においてはどこまでいっても仮説としての科学モデルと暫定的な聖書解釈の対話以上のことにはならない。絶対的な聖書解釈が掲げられたら「その人教」になる。 ・聖書の使信は確信をもって、聴衆に語られる聖霊に信頼して語られる。 ・「御心を求めること」は重要である。それは特に倫理的な動機の吟味という点で重要になる。けれども失敗して成長することも御心である。

    結)イエスの「舟」に乗る ・聖書に聴くと言いながら、伝統(常識)にしがみついてしまう私たち。 ・「絶対大丈夫という確信」を手放し、イエス様の人格に信頼し、冒険に出ることが、私たちへの招きである。

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  • 長い道のりを歩き抜くために(マルコの福音書8章1節~10節)
    Jun 9 2024

    序)「五千人の祝宴」と比較するように…「再び」 ・6 章には武装蜂起によって神の国を勝ち取ろうと息巻くガリラヤの男たちを、敵をよそに食卓を整え、お腹を満たし、愛されもてなされる価値のある一人ひとりであることを伝える、五千人の祝宴が記されていた。

    1)3 つの違いから見えてくること ・「きっかけ」…イエス様の「腸がよじれる思い」から始まる。 ・「対象」…「遠くから来ている人」とは、イスラエルが捕囚されていった異邦人の地を指す定型句であり、この時の対象の多くは異邦人であった。残った籠の数が象徴するのは、6 章はイスラエル(12 部族)、8 章はグローバル(7 は完全 数、4 は「地の四方」を象徴する)である。 ・「目的」…「途中で動けなくなる」=「その道であきらめてしまう」 → 何をあきらめてしまうことをイエス様は懸念しているのか?単に帰宅するだけなら、道中で買い物をしたり宿泊したりすることはできるはず。

    2)四千人の壮行会(派遣のための食事) ・5 章と 7 章の出来事が背景と文脈を提供する。レギオンに憑かれた男の解放、ツロ・フェニキアの女性の娘の悪霊からの解放、耳が聞こえず、口のきけない人の癒しが、この地方で起きている。 →大勢の群衆は癒しを求めてきていたと考えられる。癒された人は、イエス様のもとに留まっていた。その人たちをイエス様は「あなたの家、あなたの家族のところへ」遣わそうとしていた。(参照:5 章 19 節) ・癒しは神の国の始まりを証しする。アブラハムに約束された「すべての国民が祝福に入る」ことが実現し始めていた。この福音を携え帰宅することがイエス様の願い。しかし「空腹のままでは」実現しない。 ・イエス様の下さる「食べる物」とは、ゼロをプラスにする神の愛。

    3)イエス様の眼差しは今も変わらず ・週ごとの教会の礼拝において、私たちは養われる。神の国から「遠いところ」に私たちも遣わされる。 ・私たちの世界には、人生をあきらめたくなる「生きづらさ」がある。教会の営みも長い道のり。長い旅路を歩き抜くために養いが必要である。

    結)満たされるためのチャレンジ…「パンはいくつありますか」 ・分かち合うために十分な「パン」が私たちの手元にある。自分だけで食べると足りないが、分かち合うと増えて満ち足り、余るほどになる。

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  • 叱責しても近くにいる愛(詩篇38篇1節~22節)
    Jun 2 2024

    序)詩篇~たましいの滑走路~

    ・詩篇のことばは祈りであるので、永遠不変の真理命題とは限らない。

    ・病気は罪の結果だと教えるものではない。

    1)病気と罪の関係~堕落前から病気はあったのか~

    ・堕落以前から「従えるべきもの」があったことが創世記1:28 からわかる。人間が創造の仕上げであるから、病原菌類はその前に創造されている。

    ・「毒草」も堕落後の産物とは言えない。人間が従えられないと害を及ぼす。

    ・堕落は、神との関係の断絶により、神の知恵を受けることを阻害した。その結果、従えることが困難になった。けれども不可能ではない。

    ・堕落の結果、罪ゆえの病というものが生じたことも事実。それで今日、病は弱さ、自分の罪、他人の罪、不可抗力等の絡み合いで訪れる。

    2)病の中で神の目的を探す

    ・詩篇 38 篇の詩人に及んだ病は罪・咎・愚かさゆえと表現されているから、本人にはわかる因果関係があったと思われる。

    ・病の中で人は、過去に思いを向けて反省する心が生まれる。ある程度は健全なこと。「原因」を求めるより「目的」を探すこと。それが「責める(=叱る)」「懲らしめる(=教える)」という言葉に滲み出ている。

    ・神の怒りは、鬱憤晴らしではなく、正義ゆえであり、人が誤った道を進むことに我慢できない愛の裏返し。その神が病に陥ることを許されたのなら良い目的がある。しかし、それがしんどい時には、ストレートに「止めてほしい」と祈ってよい。

    3)病の中でコントロール能力を取り戻す

    ・病に陥っただけでも苦しいが、そこに他人の冷たい応答や心ない声が入ってくると、余計に苦しいことになる。

    ・しかし詩人はここで「聞かない」という選択をする。耳をふさぐというより、心の中にその声を入れないという決断。その代わりに、神の声に集中し、祈りに集中する。

    ・自分の咎を告白することは有益だが、病を癒す魔術的手段ではない。病の先にある新しい生き方を求めることこそ、本当の悔い改めを生む。

    結)𠮟責しても近くにいる方

    ・詩人は、自分が病に陥ることを許された神を恨むのではなく、それでもなお「私の救い」と呼びかけて近づく。こうして詩人はたましいの強さを得る。この神が人になって主イエスとして現れてくださった。

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    43 m