• 田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>

  • Jul 11 2024
  • Duración: 8 m
  • Podcast

田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>  Por  arte de portada

田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>

  • Resumen

  • この地方では四十九日満中陰の法事の際、四十九個の小餅と鏡餅のような丸い餅一枚でつくった「笠餅(かさもち)」とよばれるものを、弘法大師のご修行姿に似せた人型に切る風習があります。四十九個は人間の骨の数、鏡餅は骨を覆う皮と肉と言い伝えられていて、亡きがら全てを埋葬する土葬習慣のあったところでは、分骨や忌み分けの意味を持っているのです。そして、この笠餅のなかの鏡餅を、杖をもち笠をかぶった弘法大師の修行姿に切り分けます。体の部分を持ち帰って食べると、その箇所の病が治るのだと信じられているのです。足が悪い人は足を、手が悪い人は手をもって帰るということになるのですが、現世利益とはいいながら、まことに信じがたいお話です。

    実を言うと、私は一度もこれを切ったことがありません。というのも、もし足の悪い人ばかりお参りに来たら、どうするのでしょう。お大師さんの足は二本だけなのです。親戚同士で取り合いになったり、自分がほしかったのに誰かさんに持って行かれたなどといやな思いをすることになるとしたら、法事に来て故人の冥福を祈り、しばらくは心穏やかに過ごすことができると思っている人にとっては、それは本末転倒ではないでしょうか。

    そうならないために私はいつも次のようにお話しします。「笠餅はお大師さんの人形には切らず、来られた方の数に適当に切り分けて下さい。そしてそれぞれいただいたものをご自身の悪い部分と思い、たとえば足と思い、手と思って持って帰ってください。お大師さんの修行姿に切れば足は二本しかないので二人しか救われませんが、自分が手にしたものを手と思い足と思えば、みんなが満たされ救われるじゃないですか。これがほんとうの満足というんですよ」と。

    でも最近、私が切らないことを知ってか知らずか、笠餅の切り方が書かれたものをコピーして餅屋さんがサービスでつけてくれるそうです。昔は、「餅屋は餅屋」とその仕上げの立派さを褒めて言ったものですが、こんなサービスをされては、「餅屋も餅屋だ」と言いたくなります。

    私たちはものに名前をつけることによって、整理され便利にもなりますが、反対に名付けることによって不自由にもなっているんです。たとえば、最近ホームセンターなどでも売られている「ぞうきん」が、家で台所の「ふきん」になることはまずありません。「ぞうきん」という名前によって、床を拭いたりする、いわゆる下用の利用に限定されるからです。逆に「ふきん」が下用に使われることはないでしょう。でもホームセンターに陳列されている「ふきん」も「ぞうきん」も、どちらもきれいな布です。だとしたら、ただの白布を買ってくれば「ふきん」にも「ぞうきん」にもなることができるのです。

    言い換えれば、名付けなければ自由で融通が利くということではないでしょうか。すべてに仏の精神が宿っていることを仏教では「悉有仏性(しつうぶっしょう)」といいます。餅の一部に名前をつけて、そのものしか価値がないように思わせるようなことがあってはならないと思うのです。手や足という価値をご自身でつけ、そう観念する方が自由でいいじゃないですか。

    私は、執着することやこだわることから心を解放することが苦を「ほどく」ことであり、「ほどく」から「ほとけ」が生まれたとも教えられました。法事において名前に縛られるようなことがあっては、本来の仏の教えに合わないように思うのです。

    合掌

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