• 開眼へと導く主イエス(3)~キリストの奥義~(マルコの福音書8章27節~38節)

  • Aug 4 2024
  • Duración: 44 m
  • Podcast

開眼へと導く主イエス(3)~キリストの奥義~(マルコの福音書8章27節~38節)

  • Resumen

  • 序)マルコの福音書の大区分

    ・「人々はわたしをだれだと言っていますか」は 6 章 14 節、15 節~との繰り返し(=言葉のサンドイッチ)を作っている。

    ・「あなたはわたしをだれだと言いますか」=人生を左右する問い。

    1)「あなたはキリストです」の意味

    ・「キリストである」≒(ただの)「預言者」ではなく「決定的存在」。

    ・この告白は言葉として正しいが、その中身として弟子が思っていたことは間違いが多かった。だから「だれにも言わないように」戒め(叱)られる。

    ・この時点で、弟子たちは「ぼんやりとしか見えていない」状態。

    →私たちはどうか?「見えているかどうか」を試すのは教理的正しさではなく、十字架がわかっているか、十字架を生きているか。

    2)「自分の十字架を負って」の意味

    ・「十字架がわかる」とは「イエス様の十字架が自分の罪のためだとわかり、信じること」?→これは最初の一歩に過ぎない。

    ・「十字架がわかる」とは、十字架こそが自分 (人間)の目指す生き方だとわかり、そこに生きられるようになること。これは 0 か100 かという話ではない。少しずつ開かれていく世界である。

    ・「十字架を負う」とは「殉教」のことだけを指すのではない。

    ・「十字架を負う」とは、理不尽さの象徴として「十字架」を捉え、それを神からのものとして、引き受けていくこと、とも言い切れない。

    3)何のための「十字架」なのか

    ・イエスもペテロも「神の国をもたらす」という目的を共有していた。しかしペテロの想定した方法は十字架ではなく、力の道。これはサタン(神の敵対者)の道であった。

    ・イエス様にとって神の国をもたらす最善の方法が十字架。イエスの弟子ならば、同じ方法で同じ目的を達成するはずだとイエスは語っている。

    ・ただし、イエスの十字架と私たちの十字架には、効果の及ぶ範囲に違いがあることにも注意。神と人の間の断絶は、イエス様にしか埋められない。しかし、人と人の間の断絶は、私たちにしか埋められない。

    結)どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように

    ・「世界からマイナスの連鎖を打ち砕く」のが、十字架を生きること。

    ・救ってもらう側から、救う側に立つ時、いのちを得るのがキリストの奥義。

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