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  • 第469話『善い行いをしなさい』-【フランスにまつわるレジェンド篇】政治家 シモーヌ・ヴェイユ-
    Aug 24 2024
    『フランス人に最も愛される政治家』と評されるレジェンドがいます。
    シモーヌ・ヴェイユ。
    ほぼ同時期に活躍した、同姓同名の哲学者の女性がいますが、今週は、政治家のシモーヌ・ヴェイユの物語をお届けいたします。
    パリオリンピック2024の開会式。
    フランスの歴史を作ったとされる10人の女性の銅像がセーヌ川沿いに並びましたが、その中に、シモーヌの像もありました。
    シモーヌ・ヴェイユの功績は、完全なる男性社会だった弁護士、判事という法曹界に飛び込み、治安判事、厚生大臣を経て、フランス人女性として初めて、欧州議会議員の議長に就任。
    厚生大臣時代には、人工妊娠中絶の合法化のための法案を議会に提出し、筆舌に尽くしがたい非難批判を受けながら、法案を可決に導きます。
    女性、移民や囚人など弱者のために、生涯を捧げたのです。

    ユダヤ系フランス人である彼女は、16歳のとき、ナチス・ドイツにより、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。
    母と姉と同じ収容所に入りますが、母が亡くなり、別の収容所で、父と兄を亡くします。
    収容所での壮絶な体験は、亡くなるその日まで、彼女を苦しめ、夜中に悪夢にうなされ、過呼吸になることは避けられませんでした。

    寒さと飢え、病、強制労働に苦しむ収容所の生活。
    でも、母は、亡くなる最後まで、シモーヌに言い続けました。
    「善い行いをしなさい」
    拷問を受ける同室の女性をかばい、自分もムチで叩かれる。
    それでも母は、毅然としていました。
    善い行いをしても、損ばかりするのではないか。
    人間は、しょせん、我が身だけが可愛い。
    実際に、飢えや寒さの極限状態では、わずかな食べ物の奪い合いだったのです。
    それでも、母は言う。
    「シモーヌ、善い行いをしなさい」

    回想録をもとに作られ、2022年のフランスの年間興行収入第一位に輝いた映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』のラストは、母に抱かれる、幼いシモーヌの姿でした。
    「母は、私の全ての規範です」
    そう言い切った伝説の女性、シモーヌ・ヴェイユが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第468話『リンゴひとつで天下をとる』-【フランスにまつわるレジェンド篇】画家 ポール・セザンヌ-
    Aug 17 2024
    ピカソやマティスにキュビズムという財産を残し、建築家、ル・コルビュジエには、世界を垂直と水平、直角で構築する手法を継承した、近代絵画の父がいます。
    ポール・セザンヌ。
    後期印象派の巨匠として、モネやルノワールと共に、日本人に大人気の画家ですが、彼が世の中に本格的に認められたのは、67歳でこの世を去ったあとのことでした。
    銀行家の父の莫大な財産を受け継ぎ、金銭的な苦労は、ほとんどなかったセザンヌ。
    ただ、自分の絵が認められるまでは、苦難の道のりでした。
    サロンには、落選続き。
    作品を発表すれば、誹謗中傷、罵詈雑言。
    落ち込んで、部屋から一歩も出ずに、絵を諦めようとしたことも一度や二度ではありません。
    そんな彼を励まし、支え続けたのは、同じ中学に通っていた親友、小説家のエミール・ゾラでした。
    風景画を自分の主戦場と捉えていたセザンヌが、なぜ、リンゴの絵を画くようになったのか。
    そこに、ゾラとの友情の証が隠されています。

    失意の中、部屋から一歩も出られなくなっていたセザンヌの目の前にある、籠いっぱいのリンゴ。
    彼は、リンゴをじっくり観察しました。
    匂いをかぎ、色を確かめ、並べ、重ねる。
    あるリンゴは、窓辺に置き、それが腐るまで毎日飽きもせず、眺めたと言います。
    そうして彼は、心に誓うのです。
    「私は、リンゴで、世界をあっと言わせる」
    リンゴを画いては破り、また画いては破る日々。
    彼は毎朝、自分にこう言い聞かせました。
    「私は、毎日進歩している。私の取り柄は、それしかない」

    のちにピカソは、セザンヌの『りんごとナプキン』という絵を見て、体がふるえるほど感動します。
    そこには、既成概念や古いしきたりを打ち破るチカラがありました。
    ピカソは、友人への手紙にこう書いています。
    「セザンヌは、私のただひとりの先生です。
    彼は皆にとって、父親のような存在なのです。
    そして、私たちは、彼に守られています」
    近代絵画の進化を担ったレジェンド、ポール・セザンヌが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    13 m
  • 第467話『揺るぎない思いだけが、人の心を動かす』-【フランスにまつわるレジェンド篇】ジャンヌ・ダルク-
    Aug 10 2024
    フランスを救った英雄として、今も語り継がれる、伝説の少女がいます。
    ジャンヌ・ダルク。
    パリ1区から2区。リヴォリ通りをルーブル美術館に向かって歩くと、右手にチュイルリー公園の緑が見えてきます。
    やがてピラミッド広場に到着すれば、そこには黄金に輝く騎馬像。
    その馬にまたがる女性こそ、ジャンヌ・ダルクです。
    彼女を主人公にした映画は40本を超え、イングリッド・バーグマンやミラ・ジョヴォヴィッチなど、名立たる名優たちがジャンヌに扮しました。
    また伝説の聖女を描いた絵画も枚挙にいとまがなく、フランスのゆかりの地に、彼女の銅像が数多く建っています。
    ナポレオンと並び称されるほど、英雄として崇められていますが、実は、彼女の評価・評判には、紆余曲折がありました。

    13歳で神の声を聴き、16歳で戦いに参戦、19歳で処刑されるという、まるでフィクションの主人公のような人生。
    そのあまりに現実離れしたストーリーに、架空の人物ではないか、あるいは時の権力者に捻じ曲げられた捏造の物語ではないかと、憶測やデマが飛び交いました。
    意外にも、1400年代に生きたジャンヌ・ダルクが、フランスの救世主だった女性として脚光を浴びるのは、400年もたってからのことなのです。
    きっかけは、1841年から1849年にかけて、二つの裁判資料が発表されたことでした。
    ひとつは、ジャンヌを異端として断罪する、処刑裁判の記録。
    もうひとつが、ジャンヌ亡きあと、遺族が起こした復権裁判文書。
    この二つの資料で、ジャンヌ・ダルクが実在の人物であり、しかも、神の意志に従順で誠実な、フランスを愛するひとりの少女だったことが証明されたのです。

    百年戦争の混乱の中、イングランド軍に包囲されたオルレアンという街を解放し、王太子だったシャルルを国王の座に導いたジャンヌ。
    しかし、コンピエーニュの戦いに敗れ、イングランド軍の捕虜になってしまいます。
    厳しい詰問を受けながら、彼女は、一度も自説を曲げませんでした。
    「私は、神の声を聴き、それに従っただけです」
    なぜ、19歳の若さで、そこまで強くなれたのでしょうか。
    奇跡の少女、ジャンヌ・ダルクが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第466話『規格品の人生を歩まない』-【フランスにまつわるレジェンド篇】ファッション・デザイナー ココ・シャネル-
    Aug 3 2024
    ファッション・デザインによって女性の自由を獲得したレジェンドがいます。
    ココ・シャネル。
    イギリスの文豪、バーナード・ショーは言いました。
    20世紀最大の女性は、キュリー夫人と あともうひとり。
    それは、ココ・シャネルであると。
    シャネルは、多くの芸術家を支援しました。
    パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ストラヴィンスキー。
    彼女が支援するアーティストには共通点がありました。
    革新的で、独創性が飛びぬけていること、そして、それゆえに理解されず、ときには心ない批判、誹謗中傷につぶされそうになっていること。
    シャネル自身、いつも「人がやらないことをやり」、そのことで叩かれ、虐げられてきました。

    父の愛を知らず、母を早くに亡くし、孤児院で育ったシャネル。
    歌手になる夢を抱きますが、オーディションに落ちる日々。
    しかし、絶望の中でも、彼女はある信条を手放すことはありませんでした。
    それは、「特別な存在になるには、ひとと違っていなければならない」。
    シャネルは、自分が感じた違和感、疑問を大事に守り、そこからデザインを発想し、新しいファッションを創り出していったのです。
    初めて富裕層のパーティーに出席したとき、彼女は思います。
    「なぜ、女性は男性を喜ばすためだけに、カラフルな色を身にまとうのでしょう。
    女性の美しい肌をいちばん際立たせるのは、黒。
    だから、私は、黒一色でドレスを作りたい!」
    当時、喪服にしか採用されなかった黒い服を、一般的なものに変えたのは、シャネルだったのです。
    封建的な男性社会にあって、彼女の存在は疎まれますが、彼女は、生涯、生き方を変えませんでした。
    戦争をくぐりぬけ、87年の人生をファッションに捧げた賢人、ココ・シャネルが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第465話『優しさだけが世界を変える』-【静岡にまつわるレジェンド篇】映画監督 木下惠介-
    Jul 27 2024
    静岡県浜松市出身の、映画監督のレジェンドがいます。
    木下惠介(きのした・けいすけ)。
    黒澤明と同時期に日本映画の隆盛に貢献し、国内外で人気を二分した巨匠です。
    木下が脚本を書き監督した、日本で最初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』は、今年8月、藤原紀香主演で舞台化されます。
    木下を師匠と仰ぐ、脚本家の山田太一は、「いつの日か、木下作品がもう一度注目されるときが、きっと来る」と語っていました。
    コメディ、感動作品、悲劇から社会派のシリアスものまで、幅広いジャンルの映画を撮った彼が、映画に込めた思いとは何だったのでしょうか。
    浜松市には、そんな木下の足跡をたどることができる施設があります。
    『木下惠介記念館』。
    館内には、監督が収集していた灰皿や、愛用していた机、ソファーや所蔵していた本などが展示され、まるでそこに木下惠介がいるかのような息遣いが感じられます。

    浜松の「尾張屋」という漬物を中心に扱う食料品店で生まれた木下は、両親の寵愛を受けました。
    幼い頃に、絶対的な愛情をあふれるほど注がれた彼は、ささやかな日常の中に「優しさ」を見つける天才になったのです。
    戦時中、『陸軍』という戦意高揚映画のメガフォンをとることを命じられた木下は、出征していく息子を涙ながらに追う母の姿を延々、映しました。
    しかし、陸軍からNGが来ます。
    「お国のために戦地にいく我が息子を見送るとき、母は、決して泣かない!」と。
    もしかしたら息子と二度と会えないかもしれないと思う母が、涙を流さないはずがない。
    木下は一歩も譲らず、結局、監督を降ろされてしまいます。
    彼は所属する松竹に辞表を出しますが、幹部に説得され、慰留を受け入れました。
    幹部のひとりは、言ったのです。
    「木下君、君の映画を待っているひとが、たくさんいるんだ!」
    英雄ではなく、市井のひとの弱さと優しさに光をあてた名監督、木下惠介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第464話『ひとを幸せにする作品をつくる』-【静岡にまつわるレジェンド篇】画家 ピエール=オーギュスト・ルノワール-
    Jul 20 2024
    7月26日から静岡市美術館で開催される『西洋絵画の400年』でも観ることができる、印象派の巨匠がいます。
    ピエール=オーギュスト・ルノワール。
    淡く優しいタッチ。あたたかい色使い。
    描かれた幸せそうな人物たちは口元に笑みをとどめる。
    モネと双璧をなす、日本人に大人気の作家・ルノワールは、観るひとを豊かな気持ちにいざなってくれます。
    今回の静岡市美術館の展覧会では、彼の『赤い服の女』という名作が展示される予定です。
    当時流行していた、ふくらみがある袖が印象的な赤いドレスを着て、麦わら帽子をかぶったモデルの女性は、満ち足りた表情でこちらを見ています。
    全国展開の喫茶店の名前につけられるほど、日本人になじみがあるのは、その、観るひとを幸せにする絵の雰囲気によるものなのでしょう。
    もしかしたら、ルノワールを、ブルジョアの生まれで、幼い頃から苦労をしたことのない、幸せな人生をおくった画家、と認識しているひとが多いのかもしれません。
    貧しい仕立屋の息子に生まれた彼は、少しでもお金を稼ぐため、13歳から、磁器や陶器に絵を画く職人の見習いとして働きました。
    画家になることを目指し、絵画の学校に入っても、労働者階級の生徒は、彼ひとり。
    絵具を買うのもままならない生活からのスタートだったのです。
    サロンに挑戦しても、落選続き。
    仕事も、失業の連続。
    それでもルノワールは、絵を画くことをやめませんでした。
    それは、なぜだったのでしょうか。
    彼には、自分の仕事が人々を幸せにすることがあるという原体験があったのです。
    言い方を変えれば、自分の仕事の仕方ひとつで、ひとを幸せにするかどうかが決まるという経験を、早い段階で持つことができたのです。
    色彩の魔術師、ピエール=オーギュスト・ルノワールが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    11 m
  • 第463話『日常におかしみを見つける』-【静岡にまつわるレジェンド篇】戯作者 十返舎一九-
    Jul 13 2024
    江戸時代後期に大ベストセラー『東海道中膝栗毛』を書いた戯作者がいます。
    十返舎一九(じっぺんしゃいっく)。
    戯作者の戯作とは、江戸時代に流行った、通俗小説を含む、読み物のこと。
    36歳のときに、自分は書くことで自立すると決意して、以来、戯作だけを生業とした一九は、執筆活動だけで生計をたてた最初の作家だと言われています。
    一念発起して、わずか1年後に出した『東海道中膝栗毛』は、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、いわゆる、弥次さん喜多さんの東海道の旅を描いた連載小説。
    「膝栗毛」とは、自分の膝を栗毛の馬にたとえた表現で、「歩いて旅する」という意味です。
    1802年に初編が出版され、人気が人気を呼び、8年間の連載。
    気がつけば売れっ子作家になり、うんうんうなって執筆する机の隣で編集者が原稿を待つという、現代に通じる光景が、彼の随筆に残っています。
    なぜ、『東海道中膝栗毛』は、そこまで庶民の心をつかんだのでしょうか。
    一九は、同時期に活躍した作家、山東京伝(さんとう・きょうでん)や『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)に比べると、圧倒的に知的教養が劣っていたと言われていますが、彼には、普遍的な「人間のおかしみ」を捉える感性があったのです。
    『東海道中膝栗毛』に、時代の風刺や、政治や経済についての皮肉はありません。
    あるのは、ただ、日常のおかしみだけ。
    そこに人々は共感し、失敗して騒動を起こす弥次さん喜多さんを笑うことで、日々の苦しさやストレスから解放されたのです。
    一九の出自や生涯については、明確な文献がとぼしく、所説ありますが、ただ一点、彼が大切にしたものは一致しています。
    それは、彼に偏見がなかったこと。
    当時の江戸は地方者をさげすみ、笑うという風潮がありました。
    でも、一九は違いました。
    彼はひとの生まれ育ちではなく、人間本来が持つ、どうしようもない哀愁、おかしみを見ていたのです。
    静岡が生んだ唯一無二の作家、十返舎一九が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    11 m
  • 第462話『ひらめいた考えを大切にする』-【静岡にまつわるレジェンド篇】医師 吉岡彌生-
    Jul 6 2024
    日本初の女医養成機関を設立した女性がいます。
    吉岡彌生(よしおか・やよい)。
    21歳のときに、内務省医術開業試験に合格し、日本で27人目の女性医師になった吉岡ですが、医学界の女性への門は完全に開かれたとは言い難い状況が続きました。
    いち早く男女共学を打ち出し、女性医師育成に尽力してきた医学校、済生学舎も、学内に女性がいることで風紀が乱れると判断。
    やがて、女医不要論がまかりとおり、門は閉じられてしまいます。
    それに納得できなかった吉岡は、ここで周囲も驚く行動に出ます。
    「誰もつくらないのであれば、私がつくるしかない!」
    こうして、彼女は、東京女子医科大学の前身、東京女医学校を設立したのです。
    出身地、静岡県掛川市には、彼女の記念館があります。
    1998年11月に開館した「掛川市吉岡彌生記念館」は、吉岡の人生を3つのステージに分け、わかりやすく解説。
    移築した生家も見ることができます。
    他の記念館と違うのは、そこに看護や医学の展示があること。
    からだの仕組みがわかるパネルや、医学に関する書籍が並び、子どもから大人まで、医学の世界に触れられるスペースになっています。
    そこに、記念館設立の志が垣間見られ、あたかも館内に、郷土の偉人が立っているように感じられます。
    かかげられた、彼女の座右の銘。
    『至誠一貫(しせいいっかん)』。
    自分の信じたこと、まわりのひとへの誠意、それを貫けば、必ず、ひとに伝わり、世の中を動かすことができる。
    吉岡は、女性がまだ社会的な活躍を認められなかった時代に、誠意という武器だけを手にとり、果敢に挑戦を続けました。
    彼女の行動力の原点は、ひらめき。
    ひとは、せっかくの「ひらめき」を、リスクヘッジをするがあまり、自分で壊してしまいます。
    吉岡は、人生のいくつかの分岐点で、いつも、その「ひらめき」を大切にしてきたのです。
    近代日本の女性進出の立役者、吉岡彌生が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    13 m