流れのほとりに  By  cover art

流れのほとりに

By: キリスト教たんぽぽ教会
  • Summary

  • キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。
    キリスト教たんぽぽ教会
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Episodes
  • 福音と成長~まだ見ぬ結実を求めて~(コリント人への手紙第一14章1節~12節)
    May 5 2024

    序)福音はすべての人を神様の計画の主役にした ・「異言」=「グロッサ(舌)」はペンテコステの最初の聖霊のみわざであり、福音が全人類、全言語のものとなったことの印である。 ・使徒ペテロは「青年は幻を~老人は夢を」「しもべ、はしため」というように年齢も社会身分も関係なく、すべての人がイエスと共に主役になったことを語った。

    1)「グロッサ(異言)」競争に翻弄されたコリント教会 ・福音のもたらす世界は、みんなが主役で、みんなが脇役。しかし、この世は選ばれたエリートを主役にしたがる世界。「グロッサ」の賜物が、エリートの印と考えたコリント教会は混乱に陥っていた。 ・「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願います」は、キリスト者が異言を求めるべきと言う根拠ではない。自分しか成長させない異言で自分を育てて、教会を成長させる大人のスタートラインに立てという皮肉。 ・異言によっては人は救われないし、成長させることもない。意味の解らない言葉では神の恵みはわからない。通訳者不在なら黙ること。

    2)愛という御霊の賜物を求めよ! ・1 節の翻訳は、愛と御霊の賜物の2つがある印象だが、2つで1つである。愛は、すべてを生かす御霊の最大の賜物である。 ・自分のうちに「愛がない」と嘆くのは愚か。愛はイエス様から来る。福音によってイエス様とつながっているのだから、あとは蛇口をひねるだけ。愛すると決めた時、愛が与えられていく。 ・神の恵みは誰かに運ぶために与えられる。キリスト信仰は自己完結しない。

    3)預言するために御霊の賜物を求めよ! ・1 節には「ヒナ」という目的を示す言葉があるが翻訳されていない。愛と言う御霊の賜物を受けて預言し、預言が教会を成長させる(=建て上げる)という流れになっている。 ・教会の成長とは、神の宮になること。神殿が建つなら、いのちの水があふれ流れ、周囲が果樹園になる。教会の成長は、教会の周囲の状況で測られる。私たちの変化・成長はそのための手段であり目的ではない。 ・キリスト者の愛の働きを促す言葉のわざが「預言」=福音を本当にわかるようにすること。それは礼拝メッセージを聞いて行い、失敗を分かち合うことで実現する。自慢話とお節介はNG。

    結)日本の福音宣教が結実しない理由は、きっとここに。

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    36 mins
  • 福音と交わり~食卓は礼拝を越えて~(コリント人への手紙第一11章17節~33節)
    Apr 28 2024

    序)福音からの逸脱~経済格差の助長、貧困の放置~ ・十字架と復活の前後には食卓の場面が多い。昇天後も、弟子たちは食事のたびごとに目に見えないホストであるイエスの食卓に連なっていることを覚えた。ここに「交わり(コイノニア)」が生まれた。これが教会の原点である。(使徒 2:42 参照)

    1)愛餐、礼拝、聖餐式 ・毎週日曜日に集まるのがキリスト信仰のあり方ではない。聖書が描くのは生活の場、食事というありふれた日常において、よみがえりの主を覚え、儀式ばらずに賛美と祈りをもって礼拝すること。 ・そこに生まれる「交わり」が「義と平和を追求するものとなる」こと。 ・共に食べられない時、交わりは破れている、破られていく。和解なくして食卓なし。主の食卓に連なることができるのは、十字架による赦しがあるから。そして、この赦しが人間関係に広がること(=平和)が神の期待。 ・聖餐はこのことの象徴であり、日常が吟味されなくては、ただの儀式になる。

    2)コリント教会に起きていたこと~ふさわしくない仕方~ ・はじまりの教会は、毎日、共に集まって食事(愛餐)をし、引き続いて聖餐が行われていた。当時はたいてい、経済的に余裕のある人が、教会の集まりのために、自分の家、自分のリビングルームを提供していた。 ・労働時間の短いお金持ちが先に食事をしてしまい、貧しい労働者は腹ペコのまま過ごす。その結果、栄養失調、病気、死人も出ていた。 ・「空腹な人は家で食べなさい(34 節)」は大いなる皮肉。金持ち=「空腹な人」である。本当に空腹な貧しい人は家に帰っても食べられない。 ・パウロの真意は「食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」

    3)福音にまっすぐ生きるために ・主イエスがされた食事は「感謝して分け与える」もの。他者に「いのちを与える」ものであり、「他人のいのちを奪う」ものではない。この聖餐と日々の食卓に矛盾はないか。吟味が求められる。 ・2000 年前よりも現代は、世界がつながり、答えが簡単に出ない時代。構造的な問題が多い。これをひっくり返す積極的アクションが求められる。信仰と希望と愛は、ここで発揮すべきもの。

    結)「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」 ・「日ごと」=「来るべき」という特殊な言葉。「今日、私が口にする食べ物が、来るべき糧=御国の食事となるように」という意味がある。

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    38 mins
  • 福音と伝道~すべての人に届くために~(コリント人への手紙第一9章19節~27節)
    Apr 21 2024

    序)福音=十字架+復活(神がキリストを通してなさったみわざ) ・十字架は、人間が無条件に愛されていることを伝える。 ・復活は、神の愛を受けた者が、古いものから解放され、新しくされる希望を示す。

    1)伝道は、「説明」ではなく「変化」によって「伝える」こと ・人が神様に向かうのは、説得されることではなく、人の本当の変化こそ、福音の証しである。 ・「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」は「ユダヤ人にわかるように語りました」ではない! ・聖書的な伝道は、誰もが幸せになれる。宗教的な勧誘や、布教は不要!

    2)どこに向かって「変化」するのか ・復活の光のもと、どのような「新しさ」に向かっていけばいいのか。 →過去の傷、負い目、コンプレックスから解放されること、自由になること。自分のすべてを受け入れ、神と人を愛するために用いていただく。 ・「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」~「「弱い人たちには、弱い者になりました。」には違和感がある。パウロは生粋のユダヤ人であるし、弱さ(おそらく病気)は選びようがない不可抗力である。 →この違和感に、私たちの目指す「新しさ」がある。パウロは、自分のあり方を「どうしようもないもの」ではなくて、神様からのものとして、意識的に受け取り直している。これが「自由にされる」ということ。 ・そうしない間は「犠牲者(=奴隷)」として生きてしまいやすく、変化成長できない。キリスト信仰者は、生まれる前から存在した神の愛を信じることで「犠牲者」を脱して、成熟していくことができる。 ・「自分の過去が、自分の現在を作っており、それは変えられないし、逃れられない」というのは偽りである。過去のもたらす鎖(罪も死も)は十字架と復活によって、すでに打ち砕かれている。過去の出来事は変わらなくても、その意味は、キリストの愛によって変えられる。 ・例:病気を得ても、病気の奴隷にはならず、病気を奴隷にして、キリストに生きた河野牧師の詩「病まなければ」

    結)過去は「私」を縛らない。誰かとつながるロープである。 ・イエス様が勝利し、あなたがイエス様に出会ったゆえに、あなたの人生は、やり直しが要らない!

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    42 mins
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