Episodios

  • 人生を変える出会い(ヨハネの福音書4章21節~26節)
    Sep 15 2024

    序)人との出会いが人生を変える

    ・自分が hi-b.a.スタッフになったのも、出会いがあったから

    1)出会いを求めていないサマリアの女とイエス

    ・サマリアの女は、イエス様に出会うことをまったく予期していなかった。

    ・イエス様は、ご自分との出会いで彼女の人生が変わることを知っておられ「わたしに水を飲ませてください」と話しかけられた。

    ・イエス様は、私たちのところにも、会いに来てくださる。

    ・「あなたと話しているこのわたしがそれです」という言葉には、包み込む力強さがある。「わたしが聖書に記され、待ち望まれていた者、みなが探していた者です。これ以上、待つことも探すこともありません。」

    2)人生を変える人との出会いの間には、イエス様がいる。

    ・高校生たちにとって、大きく影響を受ける人生を変えるような出来事というのは、友達との出会いである。

    「このキャンプで受けた大きな恵みは、信仰の友ができたことです。自分にはキャンプに来る前まで、すべてを分かち合えるような、そしてお互いに励まし合い、恥ずかしがらずに神様を共に賛美できるような友達がいませんでした。しかし、このキャンプでは、そんな素敵な友達がたくさんできました。そして、中でも初日に出会ってから意気投合し、仲良くなれた同い年の子との出会いはかけがえのないものです。本当に感謝してます。」

    ・図らずもの出会いが、人生を変える時、そこにイエス様がおられる。

    3)イエス様と出会ってからの変化

    ・イエス様と出会ったこの女性は、真の礼拝者として生きるようになったのではないか。礼拝とは、最も価値あるもののために生きること。

    ・真の礼拝者の3つの特徴

    ① すぐに悔い改める:謝るだけでなく、自分中心を変えること

    ② 御霊と真理によって礼拝する:御霊の実を実らせながら、御言葉によって礼拝する。

    ③ 感動を伝える:理論や理性だけでなく、自分のことばと生き方で感動を伝える時、周りの人たちも礼拝者になっていく。

    ・この反対を生きる時「偶像礼拝者」になってしまう。

    ・真の礼拝者たちの集まり、チームとの出会いは、大きな励ましとなる。

    結)真の礼拝者によって、街が回復していく

    ・朝 5 時過ぎの派遣礼拝で、真の礼拝者へと招かれた高校生たち。

    ・一人の女性とイエス様と出会いが、街全体の救いへと展開していく。

    ・私たちも、府中市に神の国をもたらすため、真の礼拝者として生きる。

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  • 教会は神の国府~黙示録の再発見~(ヨハネの黙示録1章1節~6節)
    Sep 8 2024

    序)「ヨハネの黙示録」は「わかる」ための本

    ・「イエス・キリストの黙示」とはイエス様によって&イエス様について、「ベールに包まれていた真理がわかる=黙示」ようになったこと

    1)「すぐに起こるべきこと」~ダニエル書とのつながり~

    ・ヨハネの黙示録は「近未来を占う(憶測する)本」ではない。

    ・「起こるべきこと(ハ・デイ・ゲネスタイ)」は、ダニエル書2:28が出所。「この方が終わりの日に起こることをネブカドネツァル王に示された」

    ・ヨハネは「終わりの日」を「すぐに」と書き換えている。それはイエス様のみわざにより、もう「終わりの日」が始まっているから。

    ・ダニエル書は 2:44 で「起こること」を「神の国が興ること」と特定している。「神の国」はこの地上に起こる。死後の「天国」とは違う。

    ・「神のしもべ」とは「預言者」の意味。新約時代は皆が「預言者」。

    2)「告げられた」の意味

    ・「告げられた」(セーマイノ)は「喩えによって示す」「幻によって示す」「象徴的に言う」という意味。黙示録は新聞記事ではなく演劇の台本に近い。写実画(写真)ではなく、抽象画に譬えられる。例:獣の印

    ・黙示録の記述はすべて、象徴的な言葉である。

    ・象徴を読み解くためには、当時の世界で使われていた文献から紐解く必要がある。多くは旧約聖書、一部、そうではないものもあるが、多くは残っているので調査ができる。例:馬と風

    ・黙示録とは、イエス様が神の国をどのように起こすのかを象徴によって説明したもの。神の国において教会が重要なので、宛先は教会。

    3)教会は神の国府~イエス様への賛美のことばからわかること~

    ・「ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった」という表現は、出エジプト記 19:6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」を背景にしている。これは受動的な存在になる(臣民)の意味ではない。

    ・サムエル記第二 8:18「ダビデの息子たちは祭司であった。」が並行記事のⅠ歴代誌 18:17 では「王の側近」となっている。これが祭司の意味。

    ・「王国」+「祭司」=「国司」とすれば、私たちの使命は明確になる。

    結)教会に与えられる特権と責任

    ・現代の地方自治とは違い「国府」には全権が委ねられている。「都」と食い違うことをすれば、罷免される。同じように、教会が御心から外れ、私利私欲に走れば、さばきを受ける。(これも黙示録で語られる)

    ・私たちの問題(弱さ)は、この街の問題であり、神の国の課題である。

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    48 m
  • 泥沼で粘る祈り~この街のために~(詩篇69篇19節~36節)
    Sep 1 2024

    序)「神殿を熱心に思う」と迫害される詩人

    ・35 節からすると、神殿と町々の破壊(バビロンによる)が詩人の目の前にあり、神の民としてのパブリックな悩みを悩んでいる。

    ・この祈り全体が、イエス様の生涯と響き合って(福音書で数回引用されて)おり、イエスの弟子もこの祈りに連なることが求められている。

    1)形として見える神殿から、見えない神殿へ

    ・A.D.70 年にエルサレム神殿は再び破壊される。その後、神様は神殿を再建していない。代わりに霊的な神殿(=教会)が生み出された。

    ・見えない神殿は拡張工事が続いている。アダムとエバの交わりが最初の見えない神殿だったから、これは再建工事でもある。

    ・クリスチャンになる=見えない神殿をイエスと共に建て直すということ。

    ・「シオン(神殿)の再建」は「ユダの町々を救う」と歌われている。神殿の再建は、周りの町を回復させる(正義と平和をもたらす)。教会も同様の働きが期待されている。これが「神の国」のモデルである。

    2)神殿再建に反対する人たち~罪の泥沼~

    ・神殿がなくてもやっていける(と思っている)強い人たちにとって、平和と正義、自由と平等は迷惑である。権力を持ち、お金を持っている人は、現状維持を志向し「平穏無事」を期待する。ここに罪がある。

    ・弱肉強食のあり方では、貧しい者やハンディキャップのある人たちは生きていくことができない。真に神殿が建つなら、愛が社会を動かす正義になる。それは富める者には、不都合な知らせであり、これを志す者は「泥沼」に投げ込まれる。

    3)泥沼でも粘って祈れば勝利は確か

    ・見えない神殿を建てるということは、大変なことである。しかし教会がこれを止めると世界は弱肉強食のあり方に陥る。今日の戦争、社会問題は、教会の敗北の印だと受け止めなくてはならない。

    ・この世界に「神様がいない」ように感じられる原因は教会にある。

    ・教会に神殿を建てること止めさせる力こそ「自分のうちに住む罪」であり、これこそ私たちは戦い、滅さなくていけない。22 節~28 節の呪いは、自分の内に住む「罪人の私」に向けられるべきである。

    結)あきらめてはいけない本質的な1つのこと

    ・罪に対する戦いに粘り勝ちして、神の国をもたらす生き方をしよう!

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    37 m
  • 泥沼で粘る祈り~信仰者のために~(詩篇69篇1節~18節)
    Aug 25 2024

    序)「泥沼に沈む」こともある人生

    ・「神様を信じ、神様を愛し、神様に従って生きるなら、ピンチはなくなり、平穏無事な人生が送れます」「あなたの人生に、こんな災い、ピンチが起こるのは、あなたが信じている神が間違っているか、あなたが神様に愛されていないかです」というのは偽りである。

    ・まことの神を信じて生きる幸いとは、どんなピンチにも目的(意味)を見出すことができることにある。

    1)「ピンチが来たら祈ろう」

    ・たましいの筋肉を鍛えるために、ピンチは用いられる。

    ・ピンチ→祈り→脱出(成長)が基本サイクル。ただ、大人になると祈り→脱出までが長くなる。助けが来るのと、体力(忍耐力)が限界を超えるのかが、ギリギリの勝負になるのが「泥沼」である。

    ・「奔流」とは「鉄砲水」を意味する。普段、流れのない水無川に突然、水があふれるように、人生のピンチは突然やってくることが多い。

    ・ピンチには人間関係の破綻が関連することが多い。

    2)ピンチ=「アクシデント」×「恥」で訪れる ・物心がついた私たちは、恥をかくことを恐れ、恥ずかしい思いをするくらいなら、死んだほうがましという気持ちに支配されやすい。

    ・誰もが内側に「かっこ悪い自分」を抱え、それをどうにか「かっこつけて」生きている。ピンチは、この外側のカバーを取り去ってしまう。

    ・そういう状況では、助けを求められるのは「かっこわるい自分」を知っている人に限られる。まことの神様を知らなければ、誰にも頼れない。

    ・私たちがどんなに上手に隠しても意味のないほど、神様は私たちを知っている。その上で、いのちがけで愛して下さるのがまことの神である。

    ・でも、助けが来ない状況が長引くと、信仰さえ恥になる。

    3)粘り勝ちこそ信仰人生

    ・「神様のみこころの時に」と委ねつつ「早く」と本音も隠さず(冷めた物わかりの「いい子」にならず)祈るのが真実の祈り。

    ・神様は、必ず答えて下さり、ピンチを賛美に、感謝に変えて下さる。

    ・神を信じて生きるというのは、必ず勝つ人生を生きること。

    結)あきらめたら、信仰も終了する(救いを失うわけではないです)

    ・しかし、何度でも立ち上がれる!

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  • 自分の存在価値(イザヤ書43章4節, 7節)
    Aug 18 2024

    序)「氷点」が示す「なくてはならぬもの」②

    ・「おれにとって、なくてはならぬものとはなんだろう」(「氷点」階段)

    三浦綾子著「氷点」の第二の自殺者が示す「なくてはならぬもの」

    →自分の存在価値

    ・「こうして自分が二年間休んだって、銀行はちっとも困りませんでした。そればかりじゃなく、ぼくの休んでいる間に市内にだけでも支店が二つもふえて繁盛しているんですからね。ぼくが休もうが休むまいが同じなんですよ。つまりぼくの存在価値はゼロなんです。」(「氷点」赤い花)

    ・「いったい私とは何ものなのだろう。」(「道ありき」一二)

    1)神によって造られた

    ・「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記 1:27)

    「神は…この天地を創造して、私たち人間を創って、命を与えて下さった絶対者」(「銃口」晩夏三)

    ・「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。…あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が しかもその一日もないうちに。」(詩篇139:13,16)

    ・「わたしは神につくられた命なのだ。地球始まって以来、わたしとまったく同じ人間は、ただの一人もいなかった。その何万兆、何億兆の、他の人間とはまったく違う三木早苗という人間を、つくってくださった創造者の心を、わたしは本当に知らなかった。」(「石の森」第十三章二)

    2)神によって贖われた

    ・「この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。」(Ⅰコリント8:11)

    ・「先生、私はこの寒い雪の日に、キリストの救いを信じました。本当に私の罪の深さは、ちょっとよいことをしたぐらいで、帳消しにされるような、そんな単純なものではないことを、改めて知りました。「そのままでいいのだよ」と、ささやいてくださるイエスさまのお言葉を、そのまま私は信じます。…ここに書かれたすべての醜さを、キリストがその身に負ってくださって、私のかかるべき筈の十字架に上られるのを、目に見る思いです。」(「雪のアルバム」終章)

    ・「「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」」(イザヤ 1:18)

    3)神によって用いられる

    ・「栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器…このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(ローマ 9:23,24)

    ・「綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にあるとおり、吾吾は土から作られた、土の器にすぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように」(「この土の器をも」三十二)

    ・「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」(Ⅱコリント 4:7)

    結)私とは

    ・「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりに…する。…わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。」(イザヤ 43:4,7)

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    44 m
  • 初めにことばがあった(ヨハネの福音書1章1節~5節)
    Aug 11 2024

    序)ヨハネの福音書概観

    ・共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とは重なりの少ない福音書。

    ・対象は、全世界の人々に向けて書かれ、神の子としてのイエスキリストを強調している。

    ・著者は使徒ヨハネであり、晩年に書いたものではないかと言われている。

    ・ローマ帝国からの迫害も強く、エルサレム神殿も滅ぼされた頃だと思われる。

    1)ことばなるキリスト

    ・創世記冒頭をモチーフにしながら、イエスが神であり、ことばであることを紹介する。

    ・ことばが受肉し、人となって地上にこられた。

    ・イエスのことば、神のことばは必ず実現する。

    →人の言葉は不確かで、必ずしも言葉と行いが一致するわけではない。

    2)光なるキリスト

    ・不確かなことばが飛び交い、裏切り、裏切られる混沌とした世界の中に、ことばが受肉し、光となって地上に来た。

    →これこそが光輝くキリスト。

    ・イエスの光は闇の中に消えることはない。闇はこれに打ち勝てなかった。

    結)まとめ

    ・罪を犯した人間は、言葉と行いが一致しくなり、神から離れていった。しかし、イエスさまの方から近づいてきてくださって、私たちを照らす光となった。

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    34 m
  • 開眼へと導く主イエス(3)~キリストの奥義~(マルコの福音書8章27節~38節)
    Aug 4 2024

    序)マルコの福音書の大区分

    ・「人々はわたしをだれだと言っていますか」は 6 章 14 節、15 節~との繰り返し(=言葉のサンドイッチ)を作っている。

    ・「あなたはわたしをだれだと言いますか」=人生を左右する問い。

    1)「あなたはキリストです」の意味

    ・「キリストである」≒(ただの)「預言者」ではなく「決定的存在」。

    ・この告白は言葉として正しいが、その中身として弟子が思っていたことは間違いが多かった。だから「だれにも言わないように」戒め(叱)られる。

    ・この時点で、弟子たちは「ぼんやりとしか見えていない」状態。

    →私たちはどうか?「見えているかどうか」を試すのは教理的正しさではなく、十字架がわかっているか、十字架を生きているか。

    2)「自分の十字架を負って」の意味

    ・「十字架がわかる」とは「イエス様の十字架が自分の罪のためだとわかり、信じること」?→これは最初の一歩に過ぎない。

    ・「十字架がわかる」とは、十字架こそが自分 (人間)の目指す生き方だとわかり、そこに生きられるようになること。これは 0 か100 かという話ではない。少しずつ開かれていく世界である。

    ・「十字架を負う」とは「殉教」のことだけを指すのではない。

    ・「十字架を負う」とは、理不尽さの象徴として「十字架」を捉え、それを神からのものとして、引き受けていくこと、とも言い切れない。

    3)何のための「十字架」なのか

    ・イエスもペテロも「神の国をもたらす」という目的を共有していた。しかしペテロの想定した方法は十字架ではなく、力の道。これはサタン(神の敵対者)の道であった。

    ・イエス様にとって神の国をもたらす最善の方法が十字架。イエスの弟子ならば、同じ方法で同じ目的を達成するはずだとイエスは語っている。

    ・ただし、イエスの十字架と私たちの十字架には、効果の及ぶ範囲に違いがあることにも注意。神と人の間の断絶は、イエス様にしか埋められない。しかし、人と人の間の断絶は、私たちにしか埋められない。

    結)どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように

    ・「世界からマイナスの連鎖を打ち砕く」のが、十字架を生きること。

    ・救ってもらう側から、救う側に立つ時、いのちを得るのがキリストの奥義。

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  • 開眼へと導く主イエス(2)~問いの力~(マルコの福音書8章22節~26節)
    Jul 28 2024

    序)「見えている」「見えていない」?

    ・福音書では、神様の「救い」は、目の見えない人が、見えるようになることによってたとえられている。しかし、イエス様を信じているのに、目がふさがれていることがあるとは、どう理解したらいいのか。

    1)「見えていることもあるけれど、完全ではない」私たち

    ・キリスト信仰者は「2 段階の癒し」の間に生きている!

    ・光は入ってきているから、明るい方向に進めるが、全貌は見えない。

    ・誰かを導く場合にも、自分の考えを絶対化しない謙虚さが生まれてくる。

    ・「見えている」と思うと、それ以上の成長はない。もっと見える世界を求めていくことが願われている。

    ・私たちは、よりはっきり見えるようになるとき、神の国を生きる者として、本来の人間の姿である「神のかたち」として生きることができる。

    2)村の外へ連れ出すイエス様

    ・誰が「目の見えない人」を連れてきたのか、曖昧な書き方がされている。そのことにより、弟子たちが、自分が「見えない者」であると自覚して、イエス様に助けを求めるべきであるということが、実際に視覚障害で苦しんでいる人を助ける物語と重ねられていると読める。

    ・私たちが見えるようになるために「環境」は重要である。一対一でイエス様と向き合える時間と場所を日常という「村」の外に確保すること。

    ・イエス様と濃い関係を持つ時、見えるようになるための力は注がれる。

    3)「何が見えますか」と訊かれるイエス様

    ・「聞かれる(尋ねる)」は未完了形。答えを「言った」のも未完了形(関係が閉じられていない)で記されていることに注意。物語は、一往復のやり取りとして記されているが、実際(意味と意図)は、何度も繰り返し質問と答えがあり、何度も癒しの力が注がれたことを示す。

    ・「何が見えますか」≒「何に注意していますか」「何に注目していますか」「何に気を取られていますか」この問いに正直に答えてみること。

    ・この目の見えない人は「人」に心が向いていた。でも彼が見ていたのは人ではなかったかもしれない。見たいものを見たいように見てしまい、現実をゆがめやすい私たちの姿である。

    結)「見えていても、見えていない」ことを受け止めて

    ・何が見えているか、何を見ているかで人生の歩みは変わってくる。

    ・完全に見えるようになるのは、主イエスの再臨の時である。

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    37 m