流れのほとりに  By  cover art

流れのほとりに

By: キリスト教たんぽぽ教会
  • Summary

  • キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。
    キリスト教たんぽぽ教会
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Episodes
  • 「ちょっとだけ」でも災い~キリスト教会の失態に学ぶ~(マルコの福音書8章15節)
    Jun 23 2024

    序)人生を狂わせる力

    ・私たちはみな、どうやって生きて行ったらよいか悩む者である。

    ・私たちが善い人生を生きることを願っている神がおられ、聖書によって助けようとしておられる。(Ⅱテモテ 3 章 15 節)

    1)「パン種」の比喩

    ・「パン種」とは今の言い方で言えば「イースト」のこと。

    ・「パン」が人生・いのちに相当し、パン種はこれを左右する力をもつ。

    ・わずか(=「ちょっとだけ」)の「パン種」が全体に影響を与える。

    2)気を付けるべき「パン種」~独善~

    ・自分が正しいと思う感覚はだれもがもっているが「自分だけ」が正しいとなると「独善」に陥る。

    ・「善」は人生を良いものに、世界を良いものにするはずだが「独」がつくと逆の働きをする。

    ・日常的には「余計なお世話」が独善の現れであり、国中が独善に絡めとられるなら「正義のための戦争」が起こる。

    ・キリスト教会は歴史的に、この「パン種」によって自らを膨らませてしまった。今もそうかもしれない。「正統主義」から暴力に発展する。

    ・独善はよくないが、善そのものをあきらめるのも間違い。善を求めて対話しながら生きることが大切。

    3)気を付けるべき「パン種」~抑圧~

    ・「ヘロデ」とは王の名前に由来し、権力に物を言わせて、他者を支配するあり方が、2 つ目の「パン種」である。

    ・「権力」そのものは、様々な「違い」から来る力の差において生じる。この力の差を使って、強い者が弱い者の自由を奪うなら「ヘロデのパン種」がうごめく。ハラスメントや虐待の「種」になる。

    ・キリスト教会は歴史的に、この「パン種」によって自らを膨らませた。ローマ帝国の公認宗教になったところから、教会は絶大な富と権力をもつ組織になった。この「パン種」は膨らませた後に腐敗させる。

    結)気づいて、取り除くために

    ・「パン種」を呼び寄せてしまう私たちの心の問題を「罪」と呼ぶ。

    ・イエスの生き方こそ、罪のパン種から逃れて生きる道である。

    ・腐敗しない「パン種」として聖霊が与えられる。

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    40 mins
  • イエスの「舟」に乗る者に(マルコの福音書8章11節~13節)
    Jun 16 2024

    序)イエスの「深いため息」は今日も… ・「聖書で読み解くこれからの世界情勢」的なコンテンツへの異常な人気 ・「聖書のある記述が正しいことが科学的に証明された!」的な話題 →これらは神を信頼することとは無関係であり「天からのしるし」を求めることの現代版である。 ・「聖書で読み解くこれからの世界情勢」的なコンテンツはしばしば修正される。修正されるもので「当たるから正しい」と言うのは詐欺。 ・「聖書のある記述が正しくないことが科学的に証明された!」場合に、科学を否定する。これは究極のご都合主義である。

    1)私たちに潜む「天からのしるし」願望 ・「御心」という言葉で、自分の人生の成功保証をしたいという心は多くの人に潜んでいる。これはキリスト信仰の「占い化」である。 ・「天からのしるし」の本質は「絶対大丈夫という確信」である。しかし、これは絶対に与えられない。 →もし「絶対大丈夫という確信」をもってしまったら、自分の確信した「考え」が絶対になり、他者の声は入って来なくなり、対話することができなくなる。「不安」は消えるが「祈り」も消える。 →この「絶対」を守るために、攻撃的になる場合もある。 ・パリサイ人の言動が福音書に描かれるのは、私たちが彼らのようになる誘惑に陥る可能性が高いからである。

    2)「天からのしるし」としてではなく聖書を読む ・聖書には、これからの世界情勢を読み解く内容が含まれているのは事実だが、その目的は何が起ころうとも私たちが希望をもつためである。 ・聖書と科学は、最終的に一致するが「今の時代」においてはどこまでいっても仮説としての科学モデルと暫定的な聖書解釈の対話以上のことにはならない。絶対的な聖書解釈が掲げられたら「その人教」になる。 ・聖書の使信は確信をもって、聴衆に語られる聖霊に信頼して語られる。 ・「御心を求めること」は重要である。それは特に倫理的な動機の吟味という点で重要になる。けれども失敗して成長することも御心である。

    結)イエスの「舟」に乗る ・聖書に聴くと言いながら、伝統(常識)にしがみついてしまう私たち。 ・「絶対大丈夫という確信」を手放し、イエス様の人格に信頼し、冒険に出ることが、私たちへの招きである。

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    40 mins
  • 長い道のりを歩き抜くために(マルコの福音書8章1節~10節)
    Jun 9 2024

    序)「五千人の祝宴」と比較するように…「再び」 ・6 章には武装蜂起によって神の国を勝ち取ろうと息巻くガリラヤの男たちを、敵をよそに食卓を整え、お腹を満たし、愛されもてなされる価値のある一人ひとりであることを伝える、五千人の祝宴が記されていた。

    1)3 つの違いから見えてくること ・「きっかけ」…イエス様の「腸がよじれる思い」から始まる。 ・「対象」…「遠くから来ている人」とは、イスラエルが捕囚されていった異邦人の地を指す定型句であり、この時の対象の多くは異邦人であった。残った籠の数が象徴するのは、6 章はイスラエル(12 部族)、8 章はグローバル(7 は完全 数、4 は「地の四方」を象徴する)である。 ・「目的」…「途中で動けなくなる」=「その道であきらめてしまう」 → 何をあきらめてしまうことをイエス様は懸念しているのか?単に帰宅するだけなら、道中で買い物をしたり宿泊したりすることはできるはず。

    2)四千人の壮行会(派遣のための食事) ・5 章と 7 章の出来事が背景と文脈を提供する。レギオンに憑かれた男の解放、ツロ・フェニキアの女性の娘の悪霊からの解放、耳が聞こえず、口のきけない人の癒しが、この地方で起きている。 →大勢の群衆は癒しを求めてきていたと考えられる。癒された人は、イエス様のもとに留まっていた。その人たちをイエス様は「あなたの家、あなたの家族のところへ」遣わそうとしていた。(参照:5 章 19 節) ・癒しは神の国の始まりを証しする。アブラハムに約束された「すべての国民が祝福に入る」ことが実現し始めていた。この福音を携え帰宅することがイエス様の願い。しかし「空腹のままでは」実現しない。 ・イエス様の下さる「食べる物」とは、ゼロをプラスにする神の愛。

    3)イエス様の眼差しは今も変わらず ・週ごとの教会の礼拝において、私たちは養われる。神の国から「遠いところ」に私たちも遣わされる。 ・私たちの世界には、人生をあきらめたくなる「生きづらさ」がある。教会の営みも長い道のり。長い旅路を歩き抜くために養いが必要である。

    結)満たされるためのチャレンジ…「パンはいくつありますか」 ・分かち合うために十分な「パン」が私たちの手元にある。自分だけで食べると足りないが、分かち合うと増えて満ち足り、余るほどになる。

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    42 mins

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