• 第460話『子どもの頃の夢を実現する』-【今年メモリアルなレジェンド篇】映画監督 フランソワ・トリュフォー-
    Jun 22 2024
    今年、没後40年を迎える、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督がいます。
    フランソワ・トリュフォー。
    27歳のときに初めて撮った長編映画『大人は判ってくれない』は、いきなりカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。
    世界中から賞賛を浴び、興行的にも大ヒットを記録します。
    原題は、直訳すれば「400回の殴打、打撃」。
    フランスの慣用句に照らし合わせれば、「分別のない、放埓(ほうらつ)な生き方」というタイトルのこの映画は、12歳の少年、アントワーヌが、母親に愛されず、孤独な毎日の果てに、事件を起こし、鑑別所送りになるという物語。
    これは、ほぼ、トリュフォーの実話と言われています。

    幼い頃から親の愛を知らずに育ったトリュフォーにとって、唯一のやすらぎは、自宅で読むバルザックと、暗闇の中で観る映画でした。
    特に映画を観ている間だけは、自分は何者にもなれた。
    今とは違う境遇、人生を、生きることができた。
    でも、ひとたび映画館の重い扉を開けて外に出れば、落第して学校をやめた自分、両親に愛されていない自分に向き合わなければなりませんでした。
    いちばん愛してほしかった母には、いつも厳しくされ、存在自体をうとましく思われていることに気がついてしまったのです。
    ただ、美しい母が好きでした。
    特に、母の長くてすらっとした脚に魅了されました。
    トリュフォーの映画には、ローアングルの女性のスカートや脚のカットがよく出てきますが、そこに彼の幼い日の憧憬が残されているのかもしれません。
    ジャン・リュック・ゴダールを筆頭に、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちが、哲学性や文学性を重んじながら、難解になっていくのに対し、トリュフォーは、何気ない日常を淡々と描きながら、ゆっくりと普遍に近づくというスタンスを、生涯、貫きました。
    彼にとって映画とは、孤独だった少年時代の自分が観て、救われるものでなくてはならなかったのです。
    自分を救ってくれた映画への恩返しを、命を賭けて作品にしたレジェンド、フランソワ・トリュフォーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    12 mins
  • 第459話『精一杯、生きる』-【今年メモリアルなレジェンド篇】弁護士 三淵嘉子-
    Jun 15 2024
    NHK朝の連続テレビ小説の主人公のモデルといわれる、日本初の女性弁護士がいます。
    三淵嘉子(みぶち・よしこ)。
    今年、生誕110年、没後40年を迎える三淵は、法曹界にまだ女性の登用がなかった時代に、果敢に挑戦を試み、弁護士を皮切りに、女性初の判事、女性初の家庭裁判所長の座につきました。
    彼女は、新聞記者やインタビュアーから、「三淵さんが法曹界にうってでるのは、女性の味方になりたいからですか?」と聞かれるのを嫌がりました。
    「わたくしは、女性のためとか男性のためとか、そういうことを考えたことはありません。
    あえて言うのであれば、か弱きものの力になれたらという思いで、法律家を志したのであります」
    その発言のとおり、彼女は後年、家庭裁判所の設置に尽力し、裁判長に就任。
    およそ16年間にわたり、のべ5000人以上の少年少女の更生に命を捧げました。
    判決を言い渡す際の、三淵の、子どもたちに向けた言葉は、愛情と優しさにあふれ、傍聴人はもとより、裁きを受ける少年少女たちも号泣したと言います。
    「あなたたちは、好き好んで、そういう環境に育ったわけではありません。
    ですが、負けてはいけません。環境のせいにしてはいけません。
    あなたたちが陽の光のほうに歩きさえすれば、必ず、手を差し伸べてくれるひとが現れるのです。
    だから、どうか、絶望しないで。
    どうか、明日を見捨てないでください」

    1933年、昭和8年、弁護士法が改正され、女性にも弁護士の資格が認められるようになりましたが、女性に門戸を開いた大学は、ほとんどありませんでした。
    旧帝大では、東北大学と九州大学のみ。
    選科生などの扱いを除けば、東京で唯一女性弁護士への扉を開いたのは、明治大学だけでした。
    その狭き門にあえて挑んだ三淵には、心に決めたある思いがあったのです。
    それは「自分のたった一回の人生を、精一杯、生きる」。
    シンプルで力強いその思いは、終生、変わることはありませんでした。
    想像を絶する壁に挑んだ、法曹界のレジェンド、三淵嘉子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    11 mins
  • 第458話『自分の羽根を打ち返す』-【今年メモリアルなレジェンド篇】小説家 庄野潤三-
    Jun 8 2024
    今年没後15年を迎える、今も多くのファンに読み継がれる、芥川賞作家がいます。
    庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)。
    庄野は、昭和20年代後半に文壇に登場した小説家たち、『第三の新人』のひとりに名を連ねています。
    第一次戦後派、第二次戦後派の作家たちは、自らの戦争体験を糧に、徹底したリアリズムで極限状態の人間を残酷なまでに描きました。
    それに対抗するかのように、『第三の新人』たちは、私小説の復活、短編小説の復興を軸に、身の回りで起こる、半径3メートルの出来事に注目しました。
    中でも庄野潤三は、同じ『第三の新人』の吉行淳之介や小島信夫と違い、家族の破綻や日常の退屈、ブラックユーモアではなく、日々の暮らしの中の、何気ない優しさや切なさに光を当てたのです。
    40歳を過ぎた頃、庄野は、神奈川県川崎市の生田、多摩丘陵の丘の上に、平屋の一軒家を建て、家族と移り住み、「山の上の家」と呼ばれたその家で、半世紀近く、家族とのささやかな思い出や、庭に咲いた花や木々の成長を、小説や随筆にしたためました。

    神奈川にゆかりのあるこの作家の記念展が、本日6月8日より8月4日まで、県立神奈川近代文学館で開催されています。
    『没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!』。
    この展覧会は、庄野の88年の生涯の軌跡はもちろん、彼の家族との写真や直筆の原稿やスケッチ、アメリカ留学中のノートなど、数多くの貴重な品々が展示されています。
    そこから浮かび上がるのは、彼がストイックなまでにこだわった、「文学は人間記録、ヒューマンドキュメントである」という信念。
    人間の根本に潜む「切なさ」と、生きていることの「懐かしさ」が深い感動を持って迫ってきます。
    彼には生涯守り続けた、ある流儀がありました。
    それは、「自分の羽根を打ち返す」。
    混迷を極める今こそ読まれるべき、唯一無二の作家、庄野潤三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    13 mins
  • 第457話『信念を貫く』-【今年メモリアルなレジェンド篇】生物学者 レイチェル・カーソン-
    Jun 1 2024
    今年没後60年を迎えた、世界で初めて化学物質の危険性を告発した生物学者がいます。
    レイチェル・カーソン。
    アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身で、もともと生物学者だった彼女の名を一躍有名にしたのが、1962年に出版された『沈黙の春』という書物です。
    一見、純文学ともとれるタイトル、「森の生き物が死滅し、春になっても声がしない」という観念的で、ポエジーな書き出しのこの本は、実は、世界で初めての環境問題告発本だったのです。
    なぜ、こんなタイトルになったのか…。
    レイチェルが訴えた最大のターゲットが、DDTという殺虫剤だったことが大きく関係しています。
    第二次大戦中、アメリカ軍兵士の間で爆発的に蔓延した感染症。
    戦争で命を落とすより、マラリアなどの感染症で命を落とす兵士が多いとされていましたが、DDTをふりかけることで、多くの兵士が死なずに済んだと報じられました。
    その勢いを借りて、ノミなどの害虫を駆除する農薬として、アメリカ全土で大ヒット商品になったのです。
    当初から人体や環境への影響が懸念されていましたが、DDTを製造する会社が大きな力を持ち、批判的な論文や報道は全て握り潰されてきたのです。
    生物学者として、森を、海を、愛してやまないレイチェルは、食物連鎖の観点から、多くのデータを集め、DDT禁止を訴えることにしました。
    彼女の論文は、どの出版社に持ち込んでも断られてしまいます。
    化学物質を取り扱う企業の反対や訴訟を恐れてのことでした。
    当時、彼女は体の不調を感じていました。
    医者の診断は、手の施しようのない末期がん。
    病気を隠しつつ、痛みに苦しみながら、レイチェルはこの本の出版を諦めませんでした。
    しかし、思いはなかなか届かず、出版の夢は、やはりかなわないのかと絶望の淵に立ったとき、唯一、救いの手を差し伸べてくれたのが、時の大統領、ジョン・F・ケネディだったのです。
    死の直前まで信念を貫いた賢人、レイチェル・カーソンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    13 mins
  • 第456話『自分自身のルールをつくる』-【福井にまつわるレジェンド篇】作曲家 カミーユ・サン=サーンス-
    May 25 2024
    福井県には、全国でも名高いパイプオルガンを有する、「福井県立音楽堂 ハーモニーホールふくい」があります。
    パイプの数は、実に5014本。
    音色を選択するストップは70を数え、優しく繊細でありながら、ダイナミックな世界観を可能にしています。
    このホールで、6月16日、オルガン設置20周年を記念したコンサートが開催されます。
    オルガンを演奏するのは、世界的に有名で、日本を代表するオルガニスト、石丸由佳(いしまる・ゆか)。
    演目のひとつが、今週のレジェンド、カミーユ・サン=サーンスが作曲した、『交響曲第3番「オルガン付き」』です。
    サン=サーンスがこの偉大な作品を作曲したのは、1886年。
    51歳のときでした。
    この年には、「白鳥」を有する『動物の謝肉祭』も発表しています。
    幼い頃から神童としてもてはやされ、フランスの名門 マドレーヌ教会で、およそ20年にわたりオルガニストをつとめたサン=サーンスですが、その人生は、決して順風満帆なものではありませんでした。
    誰よりもフランスを愛し、「私は音楽よりフランスが大切だ」とまで発言した彼ですが、ワーグナーをはじめとするドイツの作曲家への傾倒ぶりが批判され、国内での評価は失墜。
    かと思うと、ワーグナーについての発言で、今度はドイツ国民から大バッシングを受け、演奏をボイコットされてしまうのです。
    愛する祖国に留まることをやめ、世界中を転々とする晩年。
    しかし彼は、正直な発言、自分の思う通りの生き方を、生涯手放すことはありませんでした。
    誰に何を言われても、自分のルールを守り切ったのです。
    「フランスのベートーヴェン」と呼ばれたレジェンド、カミーユ・サン=サーンスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    12 mins
  • 第455話『今日一日を精一杯生きる』-【福井にまつわるレジェンド篇】蘭方医 杉田玄白-
    May 18 2024
    福井県小浜市にゆかりのある、『解体新書』で有名な蘭方医がいます。
    杉田玄白(すぎた・げんぱく)。
    蘭方医とは、江戸時代に西洋医学を学んだ日本人医師のこと。
    若狭国小浜藩の、藩専任の医者だった父の影響で、幼くして医学が身近にあった玄白にとっての最大の関心事は、人体の中身でした。
    当時は、中国から伝わった漢方が主流。
    人間には五臓六腑があり、それらの調子が悪くなれば、煎じ薬で治すという考えが王道でした。
    あくまで人間の外、表面を診断し、処方する。
    しかし、初めて、腑分け、すなわち「解剖」に立ち会った玄白は、愕然とするのです。
    「書物にある五臓六腑とは、全然違うじゃないか!
    そもそも人間の体の仕組みがわからなくて、どうして病と闘えるというんだ!」
    中国伝来の医学書と違い、オランダ語で書かれた、『ターヘル・アナトミア』という本の解剖図は、見事に人間の内臓、骨格、筋肉までもが示されていました。
    「これだ! この本だ!
    これを翻訳して全国の医者や学者に読ませないと、日本の医学は、間違った方向に進んでしまう!」
    玄白は、同じ漢方医の前野良沢(まえの・りょうたく)、中川淳庵(なかがわ・じゅんあん)らと共に、『ターヘル・アナトミア』の翻訳に着手するのです。
    翻訳は、難航を極めます。
    そもそも、オランダ語がわからない、専門用語も知らない。
    すなわち、オランダ語がわかっても、日本にはその用語がない。
    たとえば、「視聴、言動を司り、かつ痛痒、あるいは感熱を知る」、すなわち「見たり聞いたり、しゃべったり、痛さ 痒さ 熱さを感じるもの」というのは、従来の日本の医学にはない用語でした。
    これを玄白は、まるで神様が持つ器官のようだということで「神経」と名付けました。
    3年5か月をかけて完成した翻訳本、その名は『解体新書』。
    この本をめぐっては、玄白と前野良沢の間で意見が分かれました。
    まだ、この翻訳には不備があると言って出版を嫌がった良沢。
    完全を目指すより、一刻も早くこの本を世に出すべきだと主張する玄白。
    玄白には、遠くの未来より、今、今日が大切だったのです。
    日本の医学に新しい道を切り開いた賢人・杉田玄白が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    12 mins
  • 第454話『周りのひとを幸せにする』-【福井にまつわるレジェンド篇】慈善活動家 林歌子-
    May 11 2024
    福井県出身の、児童福祉の先駆者がいます。
    林歌子(はやし・うたこ)。
    明治時代から、大正、昭和と、社会事業活動に生涯を捧げた歌子の功績は、大きく3つあります。
    ひとつは、アルコール依存症で悩むひとのための禁酒に関する活動。
    2つ目は、女性の人権尊重のもとに遊郭廃止を訴え続けたこと。
    そして3つ目が、孤児院を設立し、恵まれない子どもたちの生活や心のケアのために尽力したこと。
    当時は、男性の慈善活動でさえ、思うように世間に受け入れられなかった時代。
    女性の歌子に至っては、疎んじられるどころか、狂人というレッテルを貼られ、ひどい仕打ちを受けたのです。
    それでも、歌子は、活動を止めませんでした。
    稼いだ金、集めた寄付金は、惜しげもなく、全部、困っているひとのため、慈善活動のために差し出したのです。

    彼女は、特別、強く、清い心を持ったひとだったのでしょうか。
    評論家・小林秀雄の妹で劇作家の、高見澤潤子(たかみざわ・じゅんこ)は、小説『林歌子の生涯 涙とともに蒔くものは』の中で、歌子も、迷い、惑い、葛藤を繰り返す、ひとりの人間に過ぎなかったことを描いています。

    さらに、小橋勝之助(こばし・かつのすけ)、小橋実之助(こばし・じつのすけ)という兄弟との出会いがなければ、歌子の偉業はなかったかもしれません。

    大阪にある彼女の墓石には、こんな言葉が刻まれています。
    「暁の ねざめ静かに祈るなり おのがなすべき 今日のつとめを」
    歌子にとって、なすべきつとめとは「周りのひとを幸せにすること」でした。

    なぜ、彼女はそう考えるようになったのでしょうか。
    幾多の試練を乗り越えたレジェンド・林歌子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    12 mins
  • 第453話『準備をおこたらない』-【福井にまつわるレジェンド篇】探検家 ロイ・チャップマン・アンドリュース-
    May 4 2024
    福井県は、恐竜王国として有名ですが、今からおよそ100年前に、世界で初めて恐竜の卵を見つけた探検家の名前をご存知でしょうか。
    ロイ・チャップマン・アンドリュース。
    映画『インディ・ジョーンズ』のモデルとも言われている彼が、恐竜探検隊の隊長として中央アジアに出かけたのは、1922年のことでした。
    それから60年後の1982年、福井県勝山市で、白亜紀前期、1億2千万年前のワニ類化石が発見されました。
    ここから、福井県の恐竜化石発掘の歴史が始まり、日本のおよそ8割の恐竜の化石が、福井県で見つかっています。

    なぜ、福井県で多くの恐竜の化石が発掘されたのか。
    主な理由は、二つです。
    ひとつは、恐竜が生きていた頃に、陸、川や湖などでたまった地層の中でも、骨などが特にたくさんかき集められた部分、いわゆる「ボーンベッド」を発見することができたこと。
    化石が出やすい、「手取層群」が広く分布していたのです。
    さらに、福井県が早くから大規模で集中的な発掘を粘り強く続けてきたことも、大きな要因としてあげられます。
    福井駅西口に降り立てば、たくさんの恐竜の動くモニュメントが出迎えてくれます。

    子どもから大人までロマンを感じる恐竜の世界に魅かれ、探検に一生を捧げた男、ロイ・チャップマン・アンドリュースは、映画のように、クジラ、オオカミ、盗賊に襲われ、危機一髪でまぬがれてきました。
    どんなに危険な目にあっても、探検をやめることはありませんでした。
    彼は、好きだったのです。
    未知の世界に出会うことが。
    そして、新しい自分を発見することが。
    アンドリュースは、「冒険」という言葉を嫌いました。
    「大切なのは、準備。探検には準備が必要だ。でも、冒険には往々にして準備がない」
    大胆であり、繊細。
    そこに探検家としての矜持があったのです。
    恐竜の生態をひもとく扉を最初に開いた賢人、ロイ・チャップマン・アンドリュースが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    12 mins