• 第465話『優しさだけが世界を変える』-【静岡にまつわるレジェンド篇】映画監督 木下惠介-
    Jul 27 2024
    静岡県浜松市出身の、映画監督のレジェンドがいます。
    木下惠介(きのした・けいすけ)。
    黒澤明と同時期に日本映画の隆盛に貢献し、国内外で人気を二分した巨匠です。
    木下が脚本を書き監督した、日本で最初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』は、今年8月、藤原紀香主演で舞台化されます。
    木下を師匠と仰ぐ、脚本家の山田太一は、「いつの日か、木下作品がもう一度注目されるときが、きっと来る」と語っていました。
    コメディ、感動作品、悲劇から社会派のシリアスものまで、幅広いジャンルの映画を撮った彼が、映画に込めた思いとは何だったのでしょうか。
    浜松市には、そんな木下の足跡をたどることができる施設があります。
    『木下惠介記念館』。
    館内には、監督が収集していた灰皿や、愛用していた机、ソファーや所蔵していた本などが展示され、まるでそこに木下惠介がいるかのような息遣いが感じられます。

    浜松の「尾張屋」という漬物を中心に扱う食料品店で生まれた木下は、両親の寵愛を受けました。
    幼い頃に、絶対的な愛情をあふれるほど注がれた彼は、ささやかな日常の中に「優しさ」を見つける天才になったのです。
    戦時中、『陸軍』という戦意高揚映画のメガフォンをとることを命じられた木下は、出征していく息子を涙ながらに追う母の姿を延々、映しました。
    しかし、陸軍からNGが来ます。
    「お国のために戦地にいく我が息子を見送るとき、母は、決して泣かない!」と。
    もしかしたら息子と二度と会えないかもしれないと思う母が、涙を流さないはずがない。
    木下は一歩も譲らず、結局、監督を降ろされてしまいます。
    彼は所属する松竹に辞表を出しますが、幹部に説得され、慰留を受け入れました。
    幹部のひとりは、言ったのです。
    「木下君、君の映画を待っているひとが、たくさんいるんだ!」
    英雄ではなく、市井のひとの弱さと優しさに光をあてた名監督、木下惠介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    11 mins
  • 第464話『ひとを幸せにする作品をつくる』-【静岡にまつわるレジェンド篇】画家 ピエール=オーギュスト・ルノワール-
    Jul 20 2024
    7月26日から静岡市美術館で開催される『西洋絵画の400年』でも観ることができる、印象派の巨匠がいます。
    ピエール=オーギュスト・ルノワール。
    淡く優しいタッチ。あたたかい色使い。
    描かれた幸せそうな人物たちは口元に笑みをとどめる。
    モネと双璧をなす、日本人に大人気の作家・ルノワールは、観るひとを豊かな気持ちにいざなってくれます。
    今回の静岡市美術館の展覧会では、彼の『赤い服の女』という名作が展示される予定です。
    当時流行していた、ふくらみがある袖が印象的な赤いドレスを着て、麦わら帽子をかぶったモデルの女性は、満ち足りた表情でこちらを見ています。
    全国展開の喫茶店の名前につけられるほど、日本人になじみがあるのは、その、観るひとを幸せにする絵の雰囲気によるものなのでしょう。
    もしかしたら、ルノワールを、ブルジョアの生まれで、幼い頃から苦労をしたことのない、幸せな人生をおくった画家、と認識しているひとが多いのかもしれません。
    貧しい仕立屋の息子に生まれた彼は、少しでもお金を稼ぐため、13歳から、磁器や陶器に絵を画く職人の見習いとして働きました。
    画家になることを目指し、絵画の学校に入っても、労働者階級の生徒は、彼ひとり。
    絵具を買うのもままならない生活からのスタートだったのです。
    サロンに挑戦しても、落選続き。
    仕事も、失業の連続。
    それでもルノワールは、絵を画くことをやめませんでした。
    それは、なぜだったのでしょうか。
    彼には、自分の仕事が人々を幸せにすることがあるという原体験があったのです。
    言い方を変えれば、自分の仕事の仕方ひとつで、ひとを幸せにするかどうかが決まるという経験を、早い段階で持つことができたのです。
    色彩の魔術師、ピエール=オーギュスト・ルノワールが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    11 mins
  • 第463話『日常におかしみを見つける』-【静岡にまつわるレジェンド篇】戯作者 十返舎一九-
    Jul 13 2024
    江戸時代後期に大ベストセラー『東海道中膝栗毛』を書いた戯作者がいます。
    十返舎一九(じっぺんしゃいっく)。
    戯作者の戯作とは、江戸時代に流行った、通俗小説を含む、読み物のこと。
    36歳のときに、自分は書くことで自立すると決意して、以来、戯作だけを生業とした一九は、執筆活動だけで生計をたてた最初の作家だと言われています。
    一念発起して、わずか1年後に出した『東海道中膝栗毛』は、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、いわゆる、弥次さん喜多さんの東海道の旅を描いた連載小説。
    「膝栗毛」とは、自分の膝を栗毛の馬にたとえた表現で、「歩いて旅する」という意味です。
    1802年に初編が出版され、人気が人気を呼び、8年間の連載。
    気がつけば売れっ子作家になり、うんうんうなって執筆する机の隣で編集者が原稿を待つという、現代に通じる光景が、彼の随筆に残っています。
    なぜ、『東海道中膝栗毛』は、そこまで庶民の心をつかんだのでしょうか。
    一九は、同時期に活躍した作家、山東京伝(さんとう・きょうでん)や『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)に比べると、圧倒的に知的教養が劣っていたと言われていますが、彼には、普遍的な「人間のおかしみ」を捉える感性があったのです。
    『東海道中膝栗毛』に、時代の風刺や、政治や経済についての皮肉はありません。
    あるのは、ただ、日常のおかしみだけ。
    そこに人々は共感し、失敗して騒動を起こす弥次さん喜多さんを笑うことで、日々の苦しさやストレスから解放されたのです。
    一九の出自や生涯については、明確な文献がとぼしく、所説ありますが、ただ一点、彼が大切にしたものは一致しています。
    それは、彼に偏見がなかったこと。
    当時の江戸は地方者をさげすみ、笑うという風潮がありました。
    でも、一九は違いました。
    彼はひとの生まれ育ちではなく、人間本来が持つ、どうしようもない哀愁、おかしみを見ていたのです。
    静岡が生んだ唯一無二の作家、十返舎一九が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    11 mins
  • 第462話『ひらめいた考えを大切にする』-【静岡にまつわるレジェンド篇】医師 吉岡彌生-
    Jul 6 2024
    日本初の女医養成機関を設立した女性がいます。
    吉岡彌生(よしおか・やよい)。
    21歳のときに、内務省医術開業試験に合格し、日本で27人目の女性医師になった吉岡ですが、医学界の女性への門は完全に開かれたとは言い難い状況が続きました。
    いち早く男女共学を打ち出し、女性医師育成に尽力してきた医学校、済生学舎も、学内に女性がいることで風紀が乱れると判断。
    やがて、女医不要論がまかりとおり、門は閉じられてしまいます。
    それに納得できなかった吉岡は、ここで周囲も驚く行動に出ます。
    「誰もつくらないのであれば、私がつくるしかない!」
    こうして、彼女は、東京女子医科大学の前身、東京女医学校を設立したのです。
    出身地、静岡県掛川市には、彼女の記念館があります。
    1998年11月に開館した「掛川市吉岡彌生記念館」は、吉岡の人生を3つのステージに分け、わかりやすく解説。
    移築した生家も見ることができます。
    他の記念館と違うのは、そこに看護や医学の展示があること。
    からだの仕組みがわかるパネルや、医学に関する書籍が並び、子どもから大人まで、医学の世界に触れられるスペースになっています。
    そこに、記念館設立の志が垣間見られ、あたかも館内に、郷土の偉人が立っているように感じられます。
    かかげられた、彼女の座右の銘。
    『至誠一貫(しせいいっかん)』。
    自分の信じたこと、まわりのひとへの誠意、それを貫けば、必ず、ひとに伝わり、世の中を動かすことができる。
    吉岡は、女性がまだ社会的な活躍を認められなかった時代に、誠意という武器だけを手にとり、果敢に挑戦を続けました。
    彼女の行動力の原点は、ひらめき。
    ひとは、せっかくの「ひらめき」を、リスクヘッジをするがあまり、自分で壊してしまいます。
    吉岡は、人生のいくつかの分岐点で、いつも、その「ひらめき」を大切にしてきたのです。
    近代日本の女性進出の立役者、吉岡彌生が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    13 mins
  • 第461話『許すことを知る』-【今年メモリアルなレジェンド篇】元南アフリカ共和国大統領 ネルソン・マンデラ-
    Jun 29 2024
    南アフリカ共和国、初の黒人大統領になったレジェンドがいます。
    ネルソン・マンデラ。
    マンデラは、2013年に95歳でこの世を去っていますが、今年は、彼が大統領になってから、30年。
    人種差別に正面から挑んだ闘士の功績と魂は、今も国内はもちろん世界中に影響を与え続けています。
    彼の人生は、まさしく闘いの歴史。
    アパルトヘイトという厳しく理不尽な人種差別政策と闘った代償は大きく、彼は国家反逆罪で、ロベン島の監獄に収監。
    27年もの間、過酷な刑務所で過ごしたのです。
    狭い独房と、激烈な労働。
    塀の中でも肌の色に対する差別がまかりとおっていました。
    白人の囚人と、食事や服が違う、本は読めない、規律自体に大きな差があったのです。
    ここでも、マンデラは闘います。
    ただ、そのときにとった彼の態度は、攻撃的とは真逆。
    白人の刑務官たちに、ひたすら丁寧に冷静に訴え続けたのです。
    若い時期は、暴力には暴力、という考えで、むしろ過激な行動もいとわなかったマンデラ。
    でも、そこに解決の糸口は見つからない、むしろ、怨みは怨み、憎しみは憎しみを呼び、負の連鎖が止まらないことを知りました。
    1990年、72歳のときに釈放された彼は、圧倒的な支持を得て、4年後に大統領に選ばれます。
    クリント・イーストウッドが監督した実話をもとにした映画『インビクタス/負けざる者たち』では、そんな大統領就任後 間もないマンデラの姿が描かれています。
    マンデラを演じるのは、名優モーガン・フリーマン。
    1995年に南アフリカで開催されたラグビーワールドカップ。
    当時の南アフリカにおけるラグビーは、白人のスポーツ。
    アパルトヘイトの代名詞でした。
    それまでの金色と緑色のジャージや、愛称「スプリングボクス」を変更すべきという黒人たちの意見に、マンデラは反対します。
    「それでは、白人の怨みを買ってしまう。
    まわりを変えたいときは、まず自分が変わることだ。
    怒りや憎しみを消して、許す。
    そうすれば、南アフリカがひとつになる!」
    全世界に差別撤廃を訴えた英雄、ネルソン・マンデラが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    14 mins
  • 第460話『子どもの頃の夢を実現する』-【今年メモリアルなレジェンド篇】映画監督 フランソワ・トリュフォー-
    Jun 22 2024
    今年、没後40年を迎える、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督がいます。
    フランソワ・トリュフォー。
    27歳のときに初めて撮った長編映画『大人は判ってくれない』は、いきなりカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。
    世界中から賞賛を浴び、興行的にも大ヒットを記録します。
    原題は、直訳すれば「400回の殴打、打撃」。
    フランスの慣用句に照らし合わせれば、「分別のない、放埓(ほうらつ)な生き方」というタイトルのこの映画は、12歳の少年、アントワーヌが、母親に愛されず、孤独な毎日の果てに、事件を起こし、鑑別所送りになるという物語。
    これは、ほぼ、トリュフォーの実話と言われています。

    幼い頃から親の愛を知らずに育ったトリュフォーにとって、唯一のやすらぎは、自宅で読むバルザックと、暗闇の中で観る映画でした。
    特に映画を観ている間だけは、自分は何者にもなれた。
    今とは違う境遇、人生を、生きることができた。
    でも、ひとたび映画館の重い扉を開けて外に出れば、落第して学校をやめた自分、両親に愛されていない自分に向き合わなければなりませんでした。
    いちばん愛してほしかった母には、いつも厳しくされ、存在自体をうとましく思われていることに気がついてしまったのです。
    ただ、美しい母が好きでした。
    特に、母の長くてすらっとした脚に魅了されました。
    トリュフォーの映画には、ローアングルの女性のスカートや脚のカットがよく出てきますが、そこに彼の幼い日の憧憬が残されているのかもしれません。
    ジャン・リュック・ゴダールを筆頭に、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちが、哲学性や文学性を重んじながら、難解になっていくのに対し、トリュフォーは、何気ない日常を淡々と描きながら、ゆっくりと普遍に近づくというスタンスを、生涯、貫きました。
    彼にとって映画とは、孤独だった少年時代の自分が観て、救われるものでなくてはならなかったのです。
    自分を救ってくれた映画への恩返しを、命を賭けて作品にしたレジェンド、フランソワ・トリュフォーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    12 mins
  • 第459話『精一杯、生きる』-【今年メモリアルなレジェンド篇】弁護士 三淵嘉子-
    Jun 15 2024
    NHK朝の連続テレビ小説の主人公のモデルといわれる、日本初の女性弁護士がいます。
    三淵嘉子(みぶち・よしこ)。
    今年、生誕110年、没後40年を迎える三淵は、法曹界にまだ女性の登用がなかった時代に、果敢に挑戦を試み、弁護士を皮切りに、女性初の判事、女性初の家庭裁判所長の座につきました。
    彼女は、新聞記者やインタビュアーから、「三淵さんが法曹界にうってでるのは、女性の味方になりたいからですか?」と聞かれるのを嫌がりました。
    「わたくしは、女性のためとか男性のためとか、そういうことを考えたことはありません。
    あえて言うのであれば、か弱きものの力になれたらという思いで、法律家を志したのであります」
    その発言のとおり、彼女は後年、家庭裁判所の設置に尽力し、裁判長に就任。
    およそ16年間にわたり、のべ5000人以上の少年少女の更生に命を捧げました。
    判決を言い渡す際の、三淵の、子どもたちに向けた言葉は、愛情と優しさにあふれ、傍聴人はもとより、裁きを受ける少年少女たちも号泣したと言います。
    「あなたたちは、好き好んで、そういう環境に育ったわけではありません。
    ですが、負けてはいけません。環境のせいにしてはいけません。
    あなたたちが陽の光のほうに歩きさえすれば、必ず、手を差し伸べてくれるひとが現れるのです。
    だから、どうか、絶望しないで。
    どうか、明日を見捨てないでください」

    1933年、昭和8年、弁護士法が改正され、女性にも弁護士の資格が認められるようになりましたが、女性に門戸を開いた大学は、ほとんどありませんでした。
    旧帝大では、東北大学と九州大学のみ。
    選科生などの扱いを除けば、東京で唯一女性弁護士への扉を開いたのは、明治大学だけでした。
    その狭き門にあえて挑んだ三淵には、心に決めたある思いがあったのです。
    それは「自分のたった一回の人生を、精一杯、生きる」。
    シンプルで力強いその思いは、終生、変わることはありませんでした。
    想像を絶する壁に挑んだ、法曹界のレジェンド、三淵嘉子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    11 mins
  • 第458話『自分の羽根を打ち返す』-【今年メモリアルなレジェンド篇】小説家 庄野潤三-
    Jun 8 2024
    今年没後15年を迎える、今も多くのファンに読み継がれる、芥川賞作家がいます。
    庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)。
    庄野は、昭和20年代後半に文壇に登場した小説家たち、『第三の新人』のひとりに名を連ねています。
    第一次戦後派、第二次戦後派の作家たちは、自らの戦争体験を糧に、徹底したリアリズムで極限状態の人間を残酷なまでに描きました。
    それに対抗するかのように、『第三の新人』たちは、私小説の復活、短編小説の復興を軸に、身の回りで起こる、半径3メートルの出来事に注目しました。
    中でも庄野潤三は、同じ『第三の新人』の吉行淳之介や小島信夫と違い、家族の破綻や日常の退屈、ブラックユーモアではなく、日々の暮らしの中の、何気ない優しさや切なさに光を当てたのです。
    40歳を過ぎた頃、庄野は、神奈川県川崎市の生田、多摩丘陵の丘の上に、平屋の一軒家を建て、家族と移り住み、「山の上の家」と呼ばれたその家で、半世紀近く、家族とのささやかな思い出や、庭に咲いた花や木々の成長を、小説や随筆にしたためました。

    神奈川にゆかりのあるこの作家の記念展が、本日6月8日より8月4日まで、県立神奈川近代文学館で開催されています。
    『没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!』。
    この展覧会は、庄野の88年の生涯の軌跡はもちろん、彼の家族との写真や直筆の原稿やスケッチ、アメリカ留学中のノートなど、数多くの貴重な品々が展示されています。
    そこから浮かび上がるのは、彼がストイックなまでにこだわった、「文学は人間記録、ヒューマンドキュメントである」という信念。
    人間の根本に潜む「切なさ」と、生きていることの「懐かしさ」が深い感動を持って迫ってきます。
    彼には生涯守り続けた、ある流儀がありました。
    それは、「自分の羽根を打ち返す」。
    混迷を極める今こそ読まれるべき、唯一無二の作家、庄野潤三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show more Show less
    13 mins